【日本史】斯波義廉とは?応仁の乱と斯波氏の領国分裂を解説

室町時代

斯波義廉(しばよしかど)は、渋川氏から斯波氏の当主に迎えられ、室町幕府の管領を務めた人物です。斯波義敏との家督争いで山名宗全を頼り、応仁の乱では西軍に加わりました。

しかし、義廉を支えた朝倉氏や織田氏などの家臣は、それぞれの領国で力を強めていきます。義廉の生涯を通して、名門守護家の当主がなぜ主導権を保てなくなったのか、京都の争いと各地の領国支配を結びつけて解説します。

ひと目でわかる斯波義廉

斯波義廉は、1461年に斯波氏を継ぎ、義敏との対立から応仁の乱の西軍に加わった当主です。朝倉孝景の東軍への転身で越前支配が揺らぎ、戦後は有力家臣が各国の実権を握るなか、斯波氏の権威と領国の実態が離れていきました。

  • 渋川氏から迎えられ、1461年に斯波氏の家督を継ぐ
  • 甲斐・朝倉・織田ら有力家臣の支持を得る
  • 義敏の復帰をめぐる家督争いで山名宗全と結ぶ
  • 管領として幕政に関わり、1467年に西軍へ加わる
  • 京都で戦いながら、越前・尾張・遠江の支配を争う
  • 1471年に朝倉孝景が東軍へ転じ、越前の軍事的な支えを失う
  • 応仁の乱後も続く領国争いで、家臣の自立が進む
  • 1481年に子が朝倉氏の名目的な主人として越前へ迎えられる
  • 1483年の和談では当主の権威を残しつつ、各国の実権が家臣へ分かれる

斯波氏に迎えられた義廉

義敏の失脚後に渋川氏から当主を迎える

斯波氏は、室町幕府の管領を出すほどの名門で、越前・尾張・遠江などを治めていました。しかし、これだけ広い領国を当主一人で直接治めることはできません。各国では甲斐氏・朝倉氏・織田氏などの有力家臣が実際の支配を支えていました。そのため、斯波氏では当主と有力家臣の関係が非常に重要でした。

そして義廉が当主になる前、この関係が大きく崩れます。当主の斯波義敏と、甲斐氏などの有力家臣が対立したのです。義敏が当主の座を追われると、一度はその子・松王丸が家督を継ぎました。ところが1461年、松王丸も当主から外されます。

そこで新たな当主として迎えられたのが、渋川氏出身の義廉でした。義廉はもともと斯波氏の当主になる立場だった人物ではありません。父の渋川義鏡が幕府の関東政策に関わっていたこともあり、将軍・足利義政の意向によって斯波氏の養子となり、当主に選ばれたのです。

しかし、義廉が当主になったからといって、斯波家の争いが終わったわけではありませんでした。一度は追放された義敏が、当主への復帰を目指していたからです。

家臣の支持と1466年の家督争い

義廉を支えたのが、甲斐氏・朝倉氏・織田氏など斯波氏の有力家臣でした。一方、当主の座を追われた義敏も諦めません。周防の大内氏を頼りながら、斯波氏の家督と守護職を取り戻そうとしました。

ここで重要なのは、義廉と義敏だけが争っていたわけではないことです。どちらが当主になるかによって、有力家臣たちの立場も変わります。義廉を支持して力を伸ばした家臣にとって、義敏が復帰すれば自分たちの地位を失う可能性がありました。そのため甲斐氏や朝倉氏らも、義廉を当主として守ろうとしたのです。

1466年になると、将軍・足利義政が義敏を再び斯波氏の当主に戻そうとします。これに対して義廉は山名宗全らの支持を受け、当主の座を守りました。一方の義敏は細川勝元を頼ります。こうして斯波氏内部の家督争いに、義廉を支える山名宗全と、義敏を支える細川勝元という幕府の有力者同士の対立まで重なるようになりました。

さらに畠山氏でも家督争いが起こり、将軍家でも後継者をめぐる問題が続いていました。いくつもの争いが重なった結果、京都では大名たちが二つの陣営に分かれていきます。そして1467年、応仁の乱が始まりました。

応仁の乱で西軍に加わる

管領の地位と京都での戦い

1467年、畠山政長と畠山義就の争いから上御霊社で戦闘が起こり、やがて京都全体を巻き込む応仁の乱へ発展しました。斯波氏の家督を争っていた義廉と義敏も、敵味方に分かれます。義廉は山名宗全を中心とする西軍へ、義敏は細川勝元を中心とする東軍へ加わりました。つまり応仁の乱は、義廉にとって自分の家督を守るための戦いでもあったのです。

もし東軍の義敏が勝って斯波氏当主に復帰すれば、義廉は当主の座を失う可能性があります。義廉は西軍に加わり、義敏の復帰を阻もうとしました。このころ義廉は、将軍を補佐する管領も務めていました。しかし戦争が始まると、管領という肩書だけで状況を動かすことはできません。実際に戦う軍勢が必要になります。

そこで義廉を支えたのが、朝倉孝景ら斯波氏の家臣でした。朝倉孝景らは京都で東軍と戦い、細川方の屋敷などを攻撃します。さらに西軍には大内政弘も加わり、大軍を率いて京都へ入りました。

もともとは斯波氏の当主を誰にするかという争いでした。しかし細川氏や山名氏、大内氏などが加わったことで、義廉と義敏の争いも応仁の乱という大きな戦争の一部になっていったのです。

京都の合戦と三国の領国争い

義廉と義敏の戦いは、京都だけで行われたわけではありません。斯波氏が守護を務めていた越前・尾張・遠江でも両者の争いが始まりました。義廉にとって、京都で当主として認められているだけでは十分ではありません。実際に越前や尾張などを押さえていなければ、そこから兵や収入を得ることができないからです。そのため京都で応仁の乱が続く一方、各地では義廉方と義敏方が領国をめぐって戦いました。

中でも重要だったのが越前です。ここで大きな軍事力を持っていたのが、義廉を支持する朝倉孝景でした。孝景は西軍の武将として京都で戦っていましたが、1468年には越前へ戻ります。京都で戦っている間に、義敏方に越前を奪われる危険があったためです。孝景は越前で敵対勢力と戦い、次第に自らの力で領国を押さえていきました。

これは義廉にとって頼もしいことでもありましたが、同時に別の問題も生まれます。朝倉孝景が自分の軍勢で越前を支配するようになれば、それだけ斯波氏当主に頼らなくても行動できるようになるからです。義廉を支えていたはずの朝倉氏が、次第に独自の力を持つようになっていったのです。

そして1471年、義廉にとって大きな転機が訪れました。朝倉孝景が西軍を離れ、東軍へ移ったのです。

朝倉氏の転身と戦後の斯波家

1471年の東軍帰属で越前支配が揺らぐ

朝倉孝景は、もともと義廉を支える有力家臣でした。しかし越前で戦いを続けるうちに、自らの軍事力で各地を押さえるようになります。そこに目をつけたのが東軍と将軍・足利義政でした。東軍側は孝景に対して、味方になれば越前での立場を認める方向で働きかけます。

孝景にとっても大きな意味がありました。義廉の家臣として越前を治めるのではなく、自分たち朝倉氏の力で越前を支配できる可能性が出てきたからです。そして1471年、朝倉孝景は西軍を離れ、東軍へ移りました。義廉にとって、これは大きな打撃でした。京都で自分を支えてきた有力武将を失っただけではありません。斯波氏の重要な領国である越前そのものが、朝倉氏の手に移ろうとしていたからです。

ただし、孝景が東軍に移った瞬間に越前全土を支配できたわけではありません。越前には甲斐氏など朝倉氏に対抗する勢力も残っていました。義敏の子・義良も関わり、戦いはその後も続きます。1477年に京都の応仁の乱が終わっても、越前では斯波氏の家督争いから続く戦闘が終わらなかったのです。その中で朝倉氏は少しずつ敵対勢力を退け、越前で独自の支配を築いていきました。

1480年代の和談と名目的な当主の権威

1481年、朝倉孝景が亡くなると、子の氏景が朝倉氏を継ぎました。越前にはまだ朝倉氏に抵抗する勢力が残っていましたが、氏景は一族とともに支配を固めていきます。同じ頃、義廉の子も越前へ迎えられました。

しかし、これは義廉の一族が再び越前を直接支配するようになったという意味ではありません。実際に軍勢を動かし、越前を治めていたのは朝倉氏でした。朝倉氏は斯波氏の当主を主人として立てながら、自分たちが実際の政治を行う形を作っていったのです。

1483年には、越前の回復を目指していた義敏の子・義良が尾張へ移りました。さらに甲斐氏と朝倉氏の間でも和談が進みます。その結果、越前では朝倉氏、遠江では甲斐氏、尾張では織田氏というように、それぞれの有力家臣が各国で大きな力を持つようになっていきました。

義廉は主人として仰がれていても、以前の斯波氏当主のように三か国を直接動かすことはできなくなっていたのです。義廉の晩年や没年については、詳しいことが分かっていません。しかし、義廉の時代に斯波氏が大きく変化したことは確かです。義廉の時代は、守護大名の力が弱まり、その家臣たちが各地で独自の勢力へ成長していく変化をよく表しています。

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