【日本史】山名師義とは?南北朝の合戦と幕府への帰順、但馬守護となった生涯

山陰から京都へ進む軍勢を背景にした山名師義の想像イラスト 室町時代

山名師義(やまなもろよし)は、南北朝時代に父・山名時氏とともに山陰の軍勢を率い、京都へ攻め上った武将です。南朝方として足利氏と戦ったのち、幕府へ帰順して丹後などの守護を務め、1372年には但馬守護となりました。

師義の活動は、父の後を継いだ数年間だけにとどまりません。1350年代から畿内の合戦に出陣し、敗戦後には兵を山陰へ戻しながら再び戦いました。その軍事活動を経て、山名氏は幕府と敵対する勢力から、幕府に領国支配を認められた守護大名へ変わっていきます。

ひと目でわかる山名師義

山名師義は時氏の長男で、山陰から畿内へ出兵した山名軍の指揮官の一人です。父とともに幕府へ帰順した後は、一族の中心として京都で活動し、但馬守護職も得ました。1376年に亡くなると、師義の子らと弟・時義がそれぞれ守護職や一族内の役割を引き継ぎます。

  • 山名時氏の長男として、父とともに山陰の軍勢を率いる
  • 1353年、南朝方として京都へ攻め上る
  • 1355年、神南の合戦で足利義詮の軍と戦う
  • 1363年から翌年にかけて、父とともに幕府へ帰順する
  • 丹後守護として幕府のもとで領国支配を担う
  • 1371年に父を失った後も、一族の中心として活動する
  • 1372年、但馬守護となる
  • 1376年に没し、子らと弟・時義へ支配が引き継がれる

山陰の軍勢を率いて京都へ

父・時氏と幕府に敵対する

師義は、山陰に勢力を広げた山名時氏の長男です。父子が生きた南北朝時代には、京都の北朝と、吉野を中心とする南朝が並び立っていました。足利尊氏が開いた室町幕府は北朝を支えていましたが、幕府の武士たちも常に同じ側に立っていたわけではありません。

山名父子が幕府と戦うようになった背景には、尊氏と弟・直義らが争った観応の擾乱がありました。父・時氏はもともと尊氏に従っていましたが、この争いのなかで直義側へ移ります。その後も幕府との対立が続き、師義も父とともに南朝方の武将として畿内へ兵を進めることになりました。南朝と北朝の争いに、足利氏内部の対立が重なっていたのです。

1353年、南朝軍とともに京都へ攻め上る

1353年、時氏と師義は伯耆を出発し、但馬や丹後の兵も集めながら京都へ向かいました。伯耆は現在の鳥取県中西部にあたり、山名父子にとって山陰の軍勢を動かす足場となっていた地域です。この出兵では、山陰から進む山名勢と南方から進む南朝軍が京都の幕府軍を攻め、足利義詮を退かせました。

師義も軍勢を率いて攻撃に加わり、山名父子は京都へ入りました。しかし、義詮を京都から退かせたことは、幕府そのものを倒したことを意味しません。京都にとどまることはできず、父子は同年夏に伯耆へ引き揚げます。山陰に戻った後も幕府への抵抗は終わらず、次の出兵では足利直冬と行動をともにしました。

1355年、神南の合戦で敗れる

足利直冬は尊氏の子で、直義の養子となった人物です。直義の死後も尊氏との対立を続けており、山名父子はこの直冬を支える側に加わりました。1355年に直冬らの軍が京都へ入ると、師義も父とともに淀・山崎方面で義詮の軍と戦います。京都の南西にあたるこの一帯で起きたのが、神南の合戦です。

山名軍は攻勢に出ましたが、幕府方の反撃を受けて退却しました。軍記『太平記』は、師義自身も負傷し、家臣に助けられて淀へ戻ったと伝えています。さらに、討ち死にした者の名を書き留め、因幡の岩常谷にある道場へ送って、戦死者を供養させたとも記しています。

道場は、ここでは仏教の信仰や供養を行う場を指します。師義が率いた兵の故郷である山陰は、出陣する場所であるとともに、戦死者を弔う場所でもあったと軍記は伝えているのです。供養の挿話は、京都での戦いと因幡の武士たちとのつながりを伝えています。

幕府への帰順と守護職の獲得

足利義詮に帰順し、領国支配を認められる

畿内から退いた後も、山名父子は山陰を足場に軍事活動を続けました。一方、直冬の勢力は後退し、幕府では尊氏の後を継いだ足利義詮のもとで政権の立て直しが進みます。こうしたなか、父子は幕府と和解し、1363年から翌年にかけて帰順することになりました。

帰順にあたって重要だったのは、山名氏がそれまでに築いてきた領国支配の扱いでした。山名父子は支配地を幕府から認められ、そのもとで守護職を担う立場へ移ります。京都へ軍勢を向けて幕府と争う関係から、幕府の権威を受けて各地を治める関係へと変わったのです。

丹後守護として幕府に仕える

帰順後、師義は現在の京都府北部にあたる丹後の守護となりました。守護は、幕府から一国の軍事や治安を任された役職です。各地の武士を軍勢として動員したり、幕府の命令を現地で実行したりする役割があり、山名氏が山陰で築いた軍事力は、今度は幕府に仕えるためにも用いられることになりました。

山名氏の支配は、師義一人に集められたわけではありません。父や弟たちもそれぞれ守護職を担い、各国の武士を従えていました。師義はその一族の中心となる一方、自らも丹後守護として将軍に仕えます。

父の死後、1372年に但馬守護となる

応安4年(1371年)に父の山名時氏が亡くなると、一族の惣領として活動を続けました。師義は前年に父から家督を譲られており、すでに丹後や伯耆の守護を務めるなど、山名氏の領国支配を担っていました。

翌応安5年(1372年)、師義は新たに但馬守護に任じられます。但馬は現在の兵庫県北部にあたり、丹後の西に隣接する地域です。山名氏は以前から但馬で軍事活動を展開していましたが、師義が守護に任じられたことで、室町幕府から正式にその支配を認められることになりました。

師義はこうして丹後・伯耆に加えて但馬でも守護の地位を得て、山陰地方を中心とする山名氏の勢力を支えました。その後、永和2年(1376年)に師義が亡くなると、但馬守護は弟の山名時義へ引き継がれます。但馬は時義の子孫が代々支配する山名氏の重要な本拠地となり、室町時代を通じて一族の歴史に深く関わる地域となりました。

京都で儀礼や馬の献上に関わる

帰順後の師義の活動は、領国での支配だけではありません。将軍のいる京都で儀礼に関わることも、幕府への奉公の一部でした。1372年には、師義の邸宅で小侍所の年初の儀式が行われています。小侍所は将軍の身近で警護などを担う組織で、その行事の場に師義の邸宅が使われました。

1373年と1374年にも、師義が馬を献上した記録が残っています。京都で戦った頃の師義は軍勢を率いる姿で語られますが、帰順後には、このように幕府の儀礼や奉公に関わる姿も記録されました。父を失った後も、師義は京都で将軍との関係を保ち続けていたのです。

1376年の死と一族への継承

1376年、山名師義が49歳で亡くなる

永和2年(1376年)、山名師義は49歳で亡くなりました。父の山名時氏から家督を譲られてから約6年、父の死からわずか5年後のことでした。師義は父とともに南朝方として室町幕府と戦った後、貞治2年(1363年)に幕府へ帰順し、丹後・伯耆・但馬などの守護として山名氏の勢力拡大を支えてきました。

師義には義幸・氏之・満幸らの息子がいましたが、惣領の地位は弟の山名時義が継ぐことになります。長男の義幸は病弱だったとされ、すでに丹後守護として活動していたものの、一族全体を率いる立場には就きませんでした。一方、時義は幕府の侍所頭人を務めるなど、兄の存命中から幕府の政治に関わっており、山名一族のなかでも有力な存在となっていました。

時義は師義の死後に山名家の惣領となり、但馬などの守護職も担いました。ただし、これによって師義の子らが山名家での地位を失ったわけではありません。義幸は引き続き丹後守護として活動し、康暦元年(1379年)には出雲・隠岐の守護にも任じられています。こうして師義の死後は、惣領となった時義と、各地で守護を務める師義の子らが、それぞれの立場で山名氏の支配を担うことになりました。

師義の子らに受け継がれた守護職とその後の山名家

師義の子らのなかでも、義幸の弟である山名満幸は、後に丹後・出雲・隠岐の守護を務めるなど勢力を伸ばしました。また、氏之も伯耆守護となり、山名氏の一族として活動しています。師義の系統は惣領の地位こそ時義に譲りましたが、山陰を中心とする各地の支配には引き続き関わっていたのです。

しかし、こうした継承関係は、後に山名一族の対立を生むことにもなりました。時義が亡くなった後、惣領の地位や守護職をめぐって時義の子・時熙と師義の子・満幸らが対立し、明徳2年(1391年)の明徳の乱へとつながっていきます。

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