【日本史】今川氏親とは?家督争いを越え、遠江の領国と今川仮名目録を築いた大名

今川氏親のアイキャッチ画像 室町時代

今川氏親は、北条早雲として知られる伊勢盛時の支援で家督を取り戻し、駿河から遠江へ領国を広げた戦国大名です。今川義元の父でもあり、晩年には領内の争いを裁くための分国法「今川仮名目録」を制定しました。

幼いころに父を失った氏親は、どのように当主となり、拡大した土地を治める仕組みを作ったのでしょうか。家督争い、遠江・三河での戦い、法と文化を通じた領国づくりを、生涯の流れに沿って紹介します。

ひと目でわかる今川氏親

今川氏親は、駿河守護・今川義忠と北川殿の子です。義忠の戦死後に当主の座をめぐる争いを経験し、1487年に叔父・伊勢盛時の支援で地位を得ました。遠江への進出と領国内の統治を進め、1526年に今川仮名目録を制定した後に亡くなります。

  • 1473年、駿河守護・今川義忠の子として生まれる。
  • 1476年に父が遠江で戦死し、小鹿範満との家督争いに直面する。
  • 母方の叔父・伊勢盛時の支援を受け、1487年に当主の地位を取り戻す。
  • 駿河の武士を率い、父以来の対立相手である遠江の斯波氏勢力と戦う。
  • 遠江を領国に組み入れ、さらに三河東部へ勢力を広げる。
  • 検地を進め、土地と年貢を把握して領国支配の基礎を整える。
  • 宗長らと関わり、駿府での文化活動と外交を進める。
  • 1526年4月、33か条の今川仮名目録を制定して領内の紛争に対処する。
  • 同年に亡くなり、氏輝と寿桂尼らに領国の統治が引き継がれる。

父の戦死と今川家の家督争い

幼くして父を失い、家督争いに巻き込まれる

今川氏親は文明5年(1473年)、駿河守護・今川義忠の子として生まれ、幼名を龍王丸といいました。当時の今川家は駿河を本拠とする有力な守護大名で、父の義忠は隣国の遠江にも勢力を広げようとしていました。しかし、文明8年(1476年)、義忠が遠江からの帰途に塩買坂で戦死すると、幼い龍王丸の家督継承をめぐって今川家の内部で争いが起こります。

今川一族の小鹿範満を支持する家臣たちが現れ、龍王丸は義忠の息子でありながら、すぐに当主の地位を継ぐことができませんでした。龍王丸は母の北川殿とともに小川城(現在の静岡県焼津市)や丸子(静岡市駿河区)に身を寄せたと伝えられており、今川家の本拠である駿府を離れて暮らすことになります。

この家督争いは、幼い龍王丸に代わって誰が駿河の武士たちを率いるのかという問題でもありました。今川家の当主として認められるためには、父の血筋を受け継ぐだけでなく、家臣たちの支持を得て領国を治める必要があったのです。

伊勢盛時の支援を受け、今川家の実権を握る

龍王丸の家督継承を支えたのが、母・北川殿の兄弟である伊勢盛時でした。盛時は後に北条早雲として知られる人物で、室町幕府とのつながりを持ち、今川家の家督争いの調停にも関わっています。しかし、小鹿範満との対立は簡単には解消されず、龍王丸が実際に今川家を率いるまでには長い年月がかかりました。

文明19年(1487年)、盛時らの支援を受けた龍王丸側は小鹿範満を討ち、長く続いた家督争いに決着をつけます。父の義忠が戦死してから11年が経過しており、龍王丸はようやく今川家の実権を握ることができました。

こうして今川氏親は、駿河を治める当主として本格的に活動を始めます。家督争いを乗り越えた氏親は、父の時代から続く遠江への進出を進め、今川家の勢力をさらに広げていくことになります。

遠江攻略と今川氏の領国拡大

斯波氏と対立し、遠江への進出を進める

今川家の実権を握った氏親が積極的に取り組んだのが、駿河の西に隣接する遠江への進出でした。遠江は東海道を通じて三河や尾張へつながる重要な地域でしたが、守護職をめぐって斯波氏と今川氏が対立しており、父の今川義忠もこの地域への進出を進める途中で戦死していました。

氏親は駿河の武士たちを率いて遠江へ軍勢を送り、斯波氏に味方する在地武士との戦いを重ねます。しかし、遠江には長年にわたって独自の領地を維持してきた武士たちが存在しており、城を攻め落としただけで地域全体を支配できるわけではありませんでした。氏親は各地の拠点を押さえながら、今川氏に従う武士を増やし、遠江での勢力を少しずつ強めていきます。

永正5年(1508年)、氏親は遠江守護となり、今川氏は駿河に加えて遠江でも守護の地位を得ました。ただし、この段階では斯波氏を支持する勢力が残っており、遠江の支配を確立するには、さらに軍事行動を続ける必要がありました。

1517年、引馬城を攻略して遠江を平定する

遠江の支配を進めていた氏親にとって、最後まで抵抗を続けた勢力の一つが、引馬城(現在の静岡県浜松市)に立てこもる大河内氏でした。大河内氏は斯波氏に味方して今川氏と対立しており、氏親が遠江を平定するうえで、引馬城の攻略は避けて通れないものでした。

永正14年(1517年)、氏親は引馬城を攻め、大河内氏らの抵抗を抑えることに成功します。この戦いによって斯波氏の勢力は遠江から大きく後退し、長年にわたって続いていた今川氏と斯波氏の争いは、今川氏の勝利という形で決着しました。

こうして氏親は、父の義忠が果たせなかった遠江の平定を実現し、駿河と遠江にまたがる領国を築きました。遠江を手に入れたことで、今川氏は東海道の広い範囲に勢力を及ぼすようになり、戦国大名としての基盤を強めていきます。

三河や甲斐にも軍勢を進める

遠江への進出を進めた氏親は、さらに西の三河にも勢力を伸ばしました。三河には松平氏をはじめとする有力な武士たちが存在しており、氏親は現地の争いに関わりながら、東三河を中心に今川氏の影響力を広げようとしました。

また、氏親は駿河の北に位置する甲斐の争いにも介入しています。当時の甲斐では守護の武田信虎と国人領主たちが対立しており、氏親は大井氏などと結びついて武田氏と争いました。甲斐を領国として支配したわけではありませんが、周辺の武士たちとの関係を利用しながら、今川家に有利な勢力関係を築こうとしていたのです。

氏親の軍事活動は遠江の平定だけにとどまらず、三河や甲斐の情勢にも影響を及ぼしました。駿河と遠江を支配するようになった今川氏は、周辺諸国の争いにも関わる有力な戦国大名となっていきます。

検地と今川仮名目録による領国支配

検地を進め、領国内の土地を把握する

遠江の平定を進めた氏親は、新たに獲得した土地を安定して治めるため、検地にも取り組みました。検地とは、土地の面積や耕作状況などを調べ、年貢を徴収するための基礎となる情報を把握することです。

それまで遠江では、各地の武士たちがそれぞれの領地を支配していました。しかし、今川氏が新たに遠江を治めるようになると、誰がどの土地を持ち、どれほどの年貢を納めるのかを把握する必要が生じます。土地の状況が分からなければ、家臣への所領の配分や年貢の徴収を円滑に進めることができなかったからです。

氏親は検地を通じて領国内の土地や収入を把握し、今川家が直接統治に関わる仕組みを整えていきました。遠江を軍事力によって獲得した氏親は、その土地を継続して治めるための政策にも力を注いだのです。

1526年、今川仮名目録を制定する

大永6年(1526年)4月、氏親は33か条からなる分国法「今川仮名目録」を制定しました。これは今川氏が領国を治めるために定めた法で、土地をめぐる争いや家臣同士の紛争、婚姻などについて規定を設けたものです。

当時の武士たちは、それぞれが領地と家臣を持っており、土地や権利をめぐって争うことがありました。こうした対立を当事者同士の武力で解決しようとすれば、周囲の武士たちも巻き込まれ、領国内で新たな戦いが起こるおそれがあります。氏親は今川仮名目録によって争いを処理するための基準を定め、家臣たちが勝手に行動することを抑えようとしました。

また、家臣の婚姻などにも一定の制限を設け、当主の意向を無視して家臣同士が結びつきを強めることを防ごうとしています。駿河と遠江に広がった領国を治めるためには、各地の武士を今川家の命令に従わせる必要があったのです。

今川仮名目録の制定によって、氏親は幕府から任命された守護という立場だけでなく、自ら定めた法によって領国を治める姿勢を示しました。これは今川氏が戦国大名として独自の支配を強めていくうえで、大きな意味を持つ政策でした。

今川氏親の死と今川家に残したもの

1526年、今川仮名目録を制定した年に死去する

大永6年(1526年)6月、氏親は54歳で亡くなりました。今川仮名目録を制定してから、わずか2か月ほど後のことでした。

氏親は幼い頃に父を失い、今川家の家督争いに巻き込まれましたが、当主となってからは遠江への進出を積極的に進めました。長年にわたる斯波氏との争いを経て遠江を平定し、さらに三河や甲斐にも軍勢を進めるなど、今川氏の勢力を周辺地域へ広げています。

一方で、検地や今川仮名目録の制定にも取り組み、広がった領国を安定して治めるための仕組みを整えました。氏親の跡は息子の今川氏輝が継ぎ、氏親が築いた領国は次の世代へと引き継がれます。

今川家を守護大名から戦国大名へ発展させる

氏親の大きな功績は、遠江の平定によって今川氏の領国を拡大し、その土地を治めるための仕組みを整えたことです。父の義忠が遠江進出の途中で戦死したのに対し、氏親は長年の戦いを通じて遠江を平定し、駿河と遠江にまたがる領国を築きました。

また、検地によって土地や年貢を把握し、今川仮名目録によって家臣たちを統制するための法を定めています。軍事力で領土を広げるだけでなく、独自の法と政策によって領国を治める体制を築いたことが、氏親の重要な役割でした。

今川氏親は、家督争いを乗り越えて遠江を平定し、検地と今川仮名目録の制定によって、今川家を戦国大名へと発展させた人物です。 氏親が整えた領国と統治の仕組みは、後の今川氏輝や今川義元へと受け継がれていきました。

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