武田信虎(たけだ のぶとら)は、争いの続いていた甲斐国をまとめ、現在の甲府につながる城下町の基礎を築いた戦国大名です。武田信玄の父として知られますが、信玄が領国を広げる前に、武田家が甲斐を支配する土台を整えたのは信虎でした。
一方、1541年には息子の晴信(のちの信玄)に甲斐への帰国を阻まれ、当主の座を失います。それでも生涯はそこで終わりません。この記事では、家督争い、甲府のまちづくり、追放の経緯、駿河や京都での生活、信濃高遠で迎えた最期までを順に解説します。
ひと目でわかる武田信虎
武田信虎は、一族や有力な領主との争いを経て甲斐を統一し、躑躅ヶ崎館を中心とする領国支配を進めた人物です。今川氏・諏訪氏と婚姻で結びつき、他国にも進出しましたが、晴信と家臣たちに当主の座を奪われました。追放後は駿河や京都などで暮らし、1574年に高遠で亡くなります。
- 1494年、甲斐守護・武田信縄の子として生まれる。
- 1507年に家督を継ぎ、油川信恵らとの争いに臨む。
- 1519年に躑躅ヶ崎へ本拠を移し、翌年に要害城を築いて甲府の防御を固める。
- 1532年頃までに有力領主を制圧し、甲斐をほぼ統一する。
- 1537年に今川義元、1540年に諏訪頼重を娘婿として同盟を結ぶ。
- 1541年、海野平の合戦後に帰国を阻まれ、晴信へ当主が交代する。
- 追放後は今川氏の保護を受け、京都では将軍・足利義輝の相伴衆となる。
- 1574年に高遠で死去し、甲府の大泉寺で葬られる。
家督争いから甲斐統一へ
若い当主が直面した一族と有力領主の争い
信虎は1494年、甲斐守護・武田信縄の長男として生まれ、初めは信直と名乗りました。守護とは、もともと幕府から一国の軍事や治安を任された役職です。ただし、守護の家を継ぐことと、国内の領主すべてを従わせることは同じではありませんでした。室町時代の後半には、地域に根を張った領主たちも独自の兵力と土地を持っていました。
1507年に信縄が亡くなると、信虎は数え14歳で家督を継ぎます。しかし、父の弟・武田信恵との家督争いが起こり、大井氏や今井氏などとの抗争も続きました。
信虎はこうした対抗勢力との戦いを重ね、1532年頃までには甲斐をほぼ統一します。若くして継いだ家を守る段階から、一国をまとめる立場へ進んだのです。これらの戦いと並行して進めたのが、領主や家臣を集める新しい本拠の整備でした。
躑躅ヶ崎館と要害城が支えた甲府の成立
1519年、信虎は石和の川田から躑躅ヶ崎へ館を移しました。現在の甲府市にある武田神社の場所です。躑躅ヶ崎館は西・北・東を山に囲まれ、南側へ町を広げることができました。信虎は戦うだけでなく、武田家の政治と家臣団を集める場所を整えていきます。
館の近くには武田一族や有力な家臣の屋敷が置かれ、南北・東西の道も設けられました。家臣が本拠の周辺に集まることで、当主を中心とする城下町が生まれます。ただし、現在の甲府につながる町は1519年に一度で完成したのではありません。信虎・信玄・勝頼の三代を通じて整備が続きました。
信虎は1520年、館の北東に要害城を築いています。要害城は、敵に攻められた際に立てこもるための山城、つまり詰め城でした。平地の館と町に、山の防御拠点を組み合わせたのです。1521年には大泉寺も創建し、本拠周辺の整備を進めました。甲斐の支配を固めた信虎は、次に周辺の国との関係へ力を向けます。
他国への進出と晴信による当主交代
今川氏・諏訪氏との婚姻と信濃への進出
甲斐をまとめた信虎は、次に駿河や信濃など周辺の国へ目を向けました。甲斐の外には、駿河の今川氏、相模の北条氏、信濃の諏訪氏などの有力な勢力が存在していました。そのため信虎は、甲斐国内の争いを収めるだけでなく、周辺の勢力とどのような関係を築くのかも考えなければなりませんでした。時には軍勢を送り、時には同盟を結ぶことで、武田氏が生き残るための環境を整えていったのです。
信虎が利用したのは、軍事力だけではありません。天文6年(1537年)には娘を駿河の今川義元へ嫁がせ、天文9年(1540年)には別の娘を信濃の諏訪頼重へ嫁がせました。すべての問題を戦いで解決するのではなく、味方となる勢力を増やすことで、別の地域へ軍勢を向けやすくする狙いもありました。
そして天文10年(1541年)、信虎は信濃へ出兵し、海野平の戦いで海野氏を破ります。甲斐を統一した信虎は、国外でも軍事行動を進め、武田氏の勢力をさらに広げようとしていました。
ところが、この勝利の直後に信虎の立場は一変します。海野平で勝利した後、駿河へ向かった信虎が甲斐へ戻ろうとすると、息子の晴信と家臣たちによって帰国を阻まれました。甲斐をまとめ、周辺諸国へ勢力を広げていた信虎は、外の敵ではなく、自らの武田家の内部で起こった政変によって当主の座を追われることになるのです。
駿河への訪問中に甲斐へ戻れなくなった理由
天文10年(1541年)、信虎は娘婿である今川義元のいる駿河へ向かいました。ところが信虎が甲斐を離れている間に、嫡男・晴信と武田家の家臣たちが動きます。信虎を甲斐へ戻さず、晴信を新たな当主とすることにしたのです。
この政変を晴信一人だけで実行することは困難でした。甲斐に残った家臣たちが晴信を支持したことで、信虎が不在のまま新しい当主を立てることができたのです。
では、なぜ家臣たちは信虎ではなく晴信を選んだのでしょうか。信虎の政治や度重なる軍事行動に対して家臣たちの不満があったことなど、いくつかの理由が考えられています。また、信虎が晴信より弟の信繁を重んじていたという話も知られています。
晴信は父が築いた甲府の本拠と領国をそのまま引き継ぎ、新たな武田家当主となります。一方、甲斐へ戻れなくなった信虎は、娘婿である今川義元のもとで暮らすことになりました。自ら甲斐をまとめ、甲府に武田氏の新しい本拠を築いた信虎は、その甲斐を息子に追われるという形で去ることになったのです。
追放後の暮らしと高遠で迎えた最期
今川氏の保護と京都での活動
追放後の信虎は、駿河の今川氏に保護されました。今川義元は信虎の娘婿であり、領国を失った後の滞在先は、信虎自身が築いた婚姻関係にも支えられていました。甲斐の当主を晴信に譲る形となっても、武田家との血縁や他家との結びつきまで消えたわけではなかったのです。
駿河で過ごす一方、信虎は京都でも活動し、将軍・足利義輝の相伴衆となりました。相伴衆とは、将軍の宴席などに加わる格式のある立場です。
その後は今川氏のもとを離れ、諸国で暮らした後、晩年を信濃高遠で迎えます。甲斐へ帰って当主に復帰することはありませんでした。領国の中心を離れても長く生き続けた信虎の歩みは、次の世代が支配を広げていく武田家の歴史と並行して続いていたのです。
大泉寺への埋葬と信虎が残したもの
1574年3月、信虎は信濃高遠で亡くなりました。数え81歳でした。甲斐を離れた1541年から、33年が過ぎていました。若い頃に当主となり、統一とまちづくりを進めた時期だけでなく、当主の座を失ってからも長い生涯を送りました。
遺骸は甲斐へ送られ、信虎自身が1521年に創建した甲府の大泉寺で葬られました。現在、寺にある五輪塔が信虎の墓と伝えられ、山梨県の史跡に指定されています。また、息子の武田信廉は父の死後に信虎の肖像を描きました。この絵には僧・春国光新の賛が付され、大泉寺に伝わっています。
信虎の重要性は、信玄に追放された父という一場面に収まりません。争う領主をまとめ、甲府に政治の中心を置いたことで、次の世代が領国を広げる足場をつくりました。


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