浅井長政(あざい ながまさ)は、近江国北部、現在の滋賀県北部を治め、小谷城を本拠とした戦国大名です。六角氏に対抗して勢力を広げ、織田信長の妹・お市を妻に迎えました。
ところが元亀元年(1570年)、信長の越前侵攻を機に織田氏と決裂します。朝倉氏と共同で戦い、姉川の敗戦後も抵抗を続けましたが、天正元年(1573年)に小谷城で自害しました。
ひと目でわかる浅井長政
浅井長政は父・久政から北近江の領国を継ぎ、野良田で六角軍を破って勢力を広げました。織田信長と婚姻による同盟を結びますが、1570年に離反します。朝倉氏とともに三年間戦い続けた末、1573年に援軍を失い、小谷城で自害しました。
- 祖父・亮政、父・久政から北近江の勢力を引き継ぐ。
- 1560年、野良田の戦いで六角氏を破る。
- 信長の妹・お市と結婚し、織田氏と同盟を結ぶ。
- 1570年に信長から離反し、姉川や志賀の陣で戦う。
- 1573年、朝倉氏の滅亡に続いて小谷城が落ち、久政・長政父子が自害する。
北近江の浅井氏を受け継ぐ
京極氏の家臣から領国の主へ
浅井氏は、もとは北近江の京極氏に仕える家でした。長政の祖父・亮政は、京極氏の家中の争いに乗じて力を伸ばし、小谷城を拠点とします。長政は、亮政の子・久政から家督と領国を引き継ぎました。
南近江には、観音寺城を本拠とする六角氏がいました。久政の時代、浅井氏は六角氏の強い影響下にあり、長政も初めは六角義賢から一字を受けて「賢政」と名乗りました。有力者から名前の一字を受けることは、両者の結びつきを示す行為でした。
肥田城の救援と野良田の戦い
永禄3年(1560年)、浅井氏と六角氏は野良田で戦いました。現在の彦根市にあった肥田城の高野瀬氏が浅井方へ転じたため、六角氏が城を攻め、長政が救援に向かったのです。
長政は六角軍を退け、犬上・愛知方面へ勢力を広げました。この一帯は浅井・六角両氏の勢力が接する地域で、城主たちがどちらにつくかが領国の広がりを左右しました。賢政は、後に長政と名乗るようになります。
織田氏との同盟と北近江の統治
お市との婚姻と信長の上洛
長政は織田信長の妹・お市を妻に迎え、織田氏と同盟を結びました。美濃から京都へ向かう信長にとって、近江に協力者を得ることには大きな意味がありました。長政にとっても、六角氏に対抗するうえで織田氏は有力な味方となります。
永禄11年(1568年)、信長は足利義昭を奉じて京都へ進み、途中で六角氏を近江の本拠から退かせました。長政もこの上洛に協力し、織田氏との関係を保ちながら、小谷城を中心に北近江を治めました。
父・久政とともに朽木氏と誓約を交わす
同年12月12日、久政と長政は連名で、湖西の領主・朽木元綱に起請文を出しました。起請文とは、約束を破れば神仏の罰を受けると誓う文書です。
父子は朽木氏の従来の所領に加え、新たな千石の所領を認め、朽木氏から人質を差し出すことなどを約束しました。土地の権利を保障し、人質を伴う同盟を結んだのです。この文書は国立公文書館の「朽木家古文書」に残り、家督を譲った久政も地域の交渉に加わっていたことを伝えています。
信長との決裂と姉川の戦い
越前に進んだ信長の背後を脅かす
元亀元年(1570年)4月、信長は越前の朝倉義景を攻め、敦賀の城を攻略しました。長政はこのとき信長から離反し、浅井氏と織田氏の同盟は崩れます。近江の浅井氏が敵に回ったことで、越前にいた織田軍は京都へ戻る道を脅かされました。
信長は朝倉攻めを中断して撤退しました。これが「金ヶ崎の退き口」です。長政が離反を決めた詳しい事情は明らかではありませんが、以後、浅井・朝倉両氏は軍事的に連携し、織田軍に対抗しました。
姉川の戦いと横山城の陥落
同年6月、信長は北近江へ攻め込み、小谷城の南にある横山城を包囲しました。浅井・朝倉軍はこれに対し、姉川付近で信長・徳川家康の軍勢と戦います。
浅井・朝倉軍は退き、横山城も織田方に降りました。横山城は街道を見下ろす要地で、小谷城を守る出城の役割を担っていました。信長はここに木下秀吉を置き、小谷城攻撃の拠点とします。
小谷城をめぐる三年間の戦争
坂本・比叡山で信長と対峙する
長政は姉川の戦いの後も出兵を続けました。同年秋、浅井・朝倉軍は琵琶湖西岸の坂本へ進み、織田方の守備隊を破ります。さらに比叡山を足場に京都へ迫り、信長と対峙しました。これが「志賀の陣」です。
12月には和睦して両軍が兵を引きましたが、戦争はその後も続きました。元亀3年(1572年)、信長が小谷城への攻撃を強めると、朝倉義景が自ら救援に来て、城の最高所にあたる大嶽に陣を置きました。義景は半年にわたって在陣し、同年12月に越前へ戻ります。
朝倉軍の敗退で援軍を失う
天正元年(1573年)8月、浅井方の阿閉貞征が信長に通じ、織田軍が北近江へ進みました。長政を救援していた朝倉軍は退却に移りますが、信長は追撃し、近江から敦賀へ抜ける刀根坂で大きな打撃を与えました。
織田軍はそのまま越前へ攻め込み、義景は一乗谷を離れて大野へ逃れた後に自害しました。朝倉氏が滅びたことで、小谷城は越前からの援軍を失いました。
久政・長政の自害と家族のその後
信長は再び小谷城へ攻撃を集中させました。織田軍が城内に攻め入り、久政と長政はそれぞれ自害します。祖父・亮政以来続いてきた、浅井氏による北近江支配は終わりました。
お市と娘の茶々・初・江は生き延びました。茶々は後に豊臣秀吉の側室、初は京極高次の正室、江は徳川秀忠の正室となり、豊臣・徳川両家や京極家の政治に関わっていきます。
浅井氏の領国から秀吉の長浜へ
小谷城攻めで功績を挙げた秀吉は、浅井氏の旧領の大部分と小谷城を与えられました。その後、琵琶湖岸の今浜に新しい城を築き、地名を長浜と改めます。
小谷城の山上から、湖上交通を利用できる長浜へ拠点が移りました。浅井氏の滅亡に伴い、北近江では領主だけでなく、政治と流通を担う城下町の位置も変わったのです。


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