真田信綱(さなだのぶつな)は、父・幸隆の後を継いで真田家を率い、武田信玄・勝頼に仕えた武将です。幸隆の長男で、のちに真田家を継ぐ昌幸の兄にあたります。
父が上野国(現在の群馬県)の前線で活動する一方、信綱は信濃国小県郡(現在の長野県上田市周辺)の本領支配を担いました。信玄から地元の取り締まりを命じられ、上杉謙信の動静を知るための情報源としても頼られています。父とともに四阿山奥宮の修造を支え、のちには管理を担う寺の役職を保証するなど、地域の社寺との関係も引き継ぎました。
1575年、信綱は勝頼に従って長篠の戦いに出陣し、弟の昌輝とともに戦死します。兄二人の死後、家を継いだのが弟の昌幸でした。父のもとで本領を支えた時期から家の継承、長篠での最期まで、信綱の生涯をたどります。
ひと目でわかる真田信綱
信綱は幸隆の長男で、父の跡を継いで真田家を率いた武将です。武田信玄・勝頼に仕え、小県の本領支配や地域の社寺の保護に携わりました。1575年の長篠の戦いで弟・昌輝とともに戦死し、真田家は弟の昌幸へ受け継がれます。
- 真田幸隆の長男として、父とともに武田氏に仕える。
- 1562年、父と四阿山奥宮の社殿修造を支える。
- 1570年には上杉軍の動静を知るための情報源として頼られ、1572年には本領での取り締まりを命じられる。
- 1574年に父が死去。同年、四阿山奥宮を管理する寺の役職を保証する。
- 1575年、長篠の戦いで弟の昌輝とともに戦死する。
武田氏のもとで本領を支える
父・幸隆のもとで武田氏に仕える
真田家の本拠は、信濃国小県郡の真田地方、現在の長野県上田市にありました。父の幸隆は、甲斐から信濃へ進出する武田氏に仕え、砥石城の攻略などに加わって地位を築きました。信綱も父とともに武田氏に仕えました。
幸隆はやがて、信濃から国境を越えた上野国の吾妻地方へ戦いを広げました。現在の群馬県北西部にあたる地域で、上杉方の勢力と争い、岩櫃城などを押さえていきます。真田家の活動範囲は、本拠の周辺から他国の前線へ広がりました。
信綱は、父の存命中から地域の社寺とも関わっていました。永禄5年(1562年)、父とともに四阿山(あずまやさん)奥宮の社殿修造を支えています。真田地方の北にそびえる山の奥宮で、社殿の扉には、修造を支援した大檀那として父子の名が記されています。
本領の支配と上野方面の軍事を担う
父が吾妻の前線に力を注ぐ一方、小県の本領支配は信綱に任されていたと考えられています。残る書状からは、上野方面の軍事にも関わっていたことが分かります。
元亀元年(1570年)、武田信玄は、上杉謙信が上野の沼田から帰国したかどうか、信綱から情報を得るよう家臣に命じました。当時、武田氏は駿河への出兵を予定していました。他の方面へ軍勢を動かす際にも、上野にいる敵の動きを把握する必要があり、信綱はその情報を知る人物として頼られていたのです。
元亀3年(1572年)には、信綱や小県の武士たちに、武田領を追放された者が近辺に現れたら捕らえて報告するよう命令が出されています。この朱印状には信綱の名も宛先として並び、主君の命令を実行する領主の一人だったことが分かります。
真田家の継承と長篠の戦い
幸隆を失い、領地と社寺を守る
元亀4年(1573年)に信玄が亡くなると、武田家は勝頼の代になりました。翌年5月の、信綱宛てとみられる勝頼の書状には、城の警戒を怠らないよう求める内容があります。信綱はこのころ、上野の岩櫃城の防備に関わっていたと考えられています。
天正2年(1574年)、父の幸隆が亡くなりました。信綱は父から受け継いだ家を率い、地域の寺院との関係も引き継ぎます。同年閏11月、蓮華童子院に対し、四阿山奥宮を管理する別当職を従来どおり認める文書を出しました。
このように、それまでの役職や権利を領主が保証することを「安堵」といいます。父と修造を支えた奥宮について、信綱は管理を担う寺の権利を確認し、引き続きその役目を果たせるようにしました。社殿の修造と安堵状は、信綱が長く地域の信仰を支えていたことを伝えています。
長篠の戦いで弟・昌輝とともに戦死する
天正3年(1575年)、勝頼は三河の長篠城、現在の愛知県新城市にある城を包囲しました。長篠は信濃から三河へ進む経路の拠点で、徳川方の奥平貞昌が守っていました。武田氏が三河へ勢力を伸ばすためのこの戦いに、信綱と弟の昌輝も加わります。
城は包囲に耐え、救援のために徳川家康と同盟相手の織田信長が軍勢を進めました。連合軍は城の西の設楽原に陣地を築き、川沿いに柵を設け、鉄砲を使って迎え撃つ準備を整えます。
5月21日、武田軍は連合軍の陣地に攻撃を加えました。しかし守りを崩し切れず、多くの将兵を失って敗れます。信綱も昌輝とともに戦死しました。父の死からおよそ一年で、真田家は当主とその弟を同じ戦場で失ったのです。
弟への継承と信綱寺に伝わる遺品
兄二人の死後、真田家を継いだのは弟の昌幸でした。それまで甲斐で武藤家を継いで武田氏に仕えていましたが、真田家を率いる立場に変わります。幸隆と信綱が支えてきた領地や家臣は、こうして次の当主へ引き継がれました。
上田市にある信綱寺には、信綱夫妻の墓が残っています。信綱自身が再興した寺と伝えられ、弟が兄を弔う寺として整えたという説もあります。夫妻の墓は、市の史跡に指定されています。
寺には「血染めの陣羽織」も伝わります。長篠で亡くなった信綱の首を家臣が包み、故郷へ持ち帰ったという伝承のある品です。領主として発給した文書や修造に携わった社殿の扉とともに、信綱の生涯を伝えています。


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