【日本史】真田幸隆とは?砥石城攻略と吾妻進出で武田氏を支えた幸綱の生涯

室町時代

真田幸隆(さなだゆきたか)は、武田信玄に仕え、信濃の砥石城攻略や上野の吾妻地方への進出で活躍した武将です。一度は故郷の土地を失いましたが、武田氏のもとで再起し、真田氏が信濃と上野に勢力を築く基礎をつくりました。真田昌幸の父、信之・信繁の祖父にあたります。

幸隆は「幸綱」の名でも知られ、出家後は一徳斎と号しました。この記事では、本領を失った幸隆がなぜ武田氏に仕え、故郷の回復から隣国の攻略へ進んだのか、その歩みをたどります。

ひと目でわかる真田幸隆

幸隆は信濃の真田地方を基盤とする武士でした。1541年の海野平の合戦後に上野へ逃れたとされ、その後、武田晴信に仕えます。1551年の砥石城攻略で功績を挙げ、さらに北信濃や上野で武田氏の勢力拡大を支えました。1574年に亡くなりますが、その土地と家臣は子の世代へ受け継がれました。

  • 信濃の小県郡にある真田地方を基盤とする家に生まれる。
  • 1541年、海野平の合戦後に本領を離れ、上野へ逃れたとされる。
  • 武田晴信に仕え、信濃の城や武士を武田方へ取り込む役割を担う。
  • 1551年、前年に武田軍が攻略できなかった砥石城を手に入れる。
  • 1556年、尼巌城を攻略し、川中島方面の武田方の足場を広げる。
  • 岩櫃城を拠点として吾妻へ進み、1565年には嵩山城を攻略する。
  • 晩年には長男・信綱も本領の支配を担い、1574年に幸隆が亡くなる。

本領を失い、武田氏の家臣として再起する

海野平の敗戦で信濃から上野へ

真田氏は、信濃国小県郡、現在の長野県上田市の真田地域を基盤とした武士の一族です。周辺では海野氏や村上氏がそれぞれ城と土地を持ち、勢力を争っていました。そこへ甲斐国(現在の山梨県)から武田氏も進出し、東信濃の武士たちは領地を守るための戦いに巻き込まれていきます。

天文10年(1541年)、武田信虎は諏訪頼重・村上義清とともに海野氏を攻めました。海野氏は小県地方に広く勢力を持ち、真田地方にも影響を及ぼしていた一族です。この海野氏が海野平の合戦に敗れたことで、周辺の勢力関係は大きく変わりました。

幸隆もこの戦いの後、本領である真田地方を離れ、上野国(現在の群馬県)へ逃れたとされています。上野では箕輪城主・長野業政のもとに身を寄せたと伝えられます。真田氏のその後の成長は、こうして故郷の土地を失ったところから始まりました。

武田信玄のもとで信濃攻略に加わる

海野平の合戦と同じ1541年、甲斐では武田信玄が父の信虎を退け、武田氏の当主となりました。幸隆はこの信玄に仕えるようになります。かつて真田地方を離れる原因となった武田氏のもとで、再起を図る立場こととなったのです。

その間に、武田氏と信濃の勢力との関係も変わっていました。信玄は1542年に諏訪頼重を滅ぼし、さらに信濃へ支配を広げて村上義清とも対立します。海野氏を攻めたときの武田・諏訪・村上の協力関係は崩れ、今度は武田氏と村上氏が小県地方などを争うようになりました。

信玄が信濃を支配するには、城を攻めるだけでなく、その土地の武士を味方に加える必要がありました。幸隆は東信濃や北信濃の武士に働きかけ、武田方へ引き入れる役割も担います。土地に根を持つ幸隆の働きは武田氏の侵攻を支え、幸隆自身にとっても、武田氏の力を背景に故郷での地位を取り戻す道となりました。

砥石城の攻略から北信濃へ進む

「砥石崩れ」の翌年に城を手に入れる

武田氏が小県地方へ支配を広げるうえで、重要な拠点だったのが砥石城です。現在の上田市にあるこの山城は村上方の城で、真田地方にも近い場所にありました。ここを押さえることは、武田氏が周辺を支配し、さらに北信濃へ進むための足場を得ることにつながります。

天文19年(1550年)、武田信玄は砥石城を攻めましたが、村上方の抵抗を受けて攻略を断念しました。武田軍は退却中にも追撃され、多くの兵を失います。この敗戦が「砥石崩れ」です。

ところが翌天文20年(1551年)、幸隆が砥石城の攻略に成功しました。内通者を得て一夜で城を取ったという話も伝わりますが、具体的な攻略方法は確かではありません。幸隆は、前年に武田軍が敗れた城を武田方の拠点へ変え、大きな功績を挙げたのです。

砥石城の攻略によって、幸隆は武田家中での立場を固め、本領の真田地方を再び押さえるようになりました。武田氏にとっての信濃支配の拡大が、幸隆にとっては失った土地の回復にもなったのでした。

尼巌城を攻略し、川中島方面の足場を広げる

武田氏は砥石城を得た後も村上氏への攻勢を続け、天文22年(1553年)には村上義清を越後へ追い込みます。越後は現在の新潟県にあたり、義清が頼ったのは、その有力大名である長尾景虎でした。景虎は後の上杉謙信です。

景虎が村上氏らを支援して信濃へ出兵すると、北へ進んだ武田氏と、越後から南下する景虎の軍が川中島周辺で対立しました。小県地方を取り戻した後も、幸隆の戦いは終わらず、武田氏の家臣として北信濃の攻略へ進むことになります。

弘治2年(1556年)、幸隆は尼巌城を攻略しました。現在の長野市松代町にある山城で、川中島方面の武士が拠点とした城の一つです。これを手に入れたことで、武田方は周辺へ兵を進め、支配を広げるための足場を増やしました。

武田氏と上杉氏は何度も川中島で対陣しましたが、その間にも、地域の城や武士をどちらが押さえるかという争いが続いていました。幸隆は城の攻略や現地の武士との交渉を通じて、武田氏の前線を支えたのです。

吾妻の攻略と子の世代への継承

岩櫃城を拠点として上野へ勢力を広げる

やがて武田氏と上杉氏の対立は、信濃の東隣にある上野にも広がりました。上杉謙信が上野を足場に関東へ進み、小田原の北条氏と戦うようになると、北条氏と同盟を結んでいた武田信玄も上野へ出兵します。幸隆はそのうち、北西部の吾妻地方の攻略を担いました。

吾妻は、真田地方から鳥居峠を越えた先にある地域です。ここでは鎌原氏と羽尾氏が土地を争い、上杉方の羽尾氏に対抗する鎌原氏が幸隆を通じて武田氏の支援を求めていました。幸隆の本領に隣接する地域の争いが、武田・上杉両氏の対立と結びついたのです。

幸隆は吾妻へ兵を進め、斉藤氏の拠点であった岩櫃城を手に入れました。岩櫃城は吾妻川沿いを押さえる山城で、その後、真田氏が吾妻を治める中心となります。しかし、斉藤氏側の勢力は嵩山城へ移って抵抗を続けたため、岩櫃城の攻略だけで争いが終わったわけではありませんでした。

永禄8年(1565年)、幸隆は嵩山城も攻略します。こうして抵抗する勢力を退け、吾妻の武田方の支配を固めていきました。信玄はさらに南の箕輪城などへ攻略を進め、幸隆は岩櫃城を拠点に吾妻の武士を率いる立場となります。

故郷の回復を果たした幸隆は、今や武田氏のもとで隣国の一地域を任される武将になっていました。この吾妻の足場が、後に昌幸が沼田方面へ進む出発点となります。

晩年の信綱への継承と、昌幸に続く真田家

幸隆が上野の前線に関わる一方、長男の信綱も信濃の本領の支配を担うようになりました。元亀3年(1572年)には、信綱が小県地方の武士たちとともに、武田信玄から領内の取り締まりを命じられています。幸隆の晩年には、親子で地域の支配を支えていたのです。

元亀4年(1573年)に信玄が亡くなり、武田家は武田勝頼の代へ移ります。その翌天正2年(1574年)、幸隆も病没しました。現在の上田市真田町にある長谷寺には、幸隆夫妻と昌幸の墓が残っています。

真田家を継いだ信綱は、翌1575年の長篠の戦いに出陣しましたが、弟の昌輝とともに戦死します。このため、甲斐で武田氏に仕えていた三男・昌幸が家を継ぐことになりました。昌幸は吾妻の支配を受け継ぎ、1580年にはさらに東の沼田城を手に入れます。

幸隆は武田氏の家臣として、本領を回復し、信濃と上野で土地や武士との結びつきを築きました。その積み重ねは、子の昌幸が武田氏の滅亡後にも自らの勢力を保ち、上田と沼田を拠点とする領主になるための土台となったのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました