【日本史】楠木正儀とは?京都への進攻と和睦交渉、南北両朝を移った生涯

室町時代

楠木正儀(くすのきまさのり)は、南北朝時代に河内を拠点として活動した武将です。父の楠木正成、兄の正行の死後も南朝の軍勢を支え、京都への進攻を重ねる一方、室町幕府との和睦交渉にも携わりました。

その歩みは、最後まで同じ陣営で戦い続けたという物語には収まりません。1369年には幕府に降り、のちに南朝へ戻っています。ここでは、軍事と交渉の両面から、正儀が直面した南北朝内乱の現実をたどります。

ひと目でわかる楠木正儀

正儀が楠木氏を率いた時代には、南朝と北朝が対立しただけでなく、幕府の内部でも有力武将が争っていました。正儀はその分裂を利用して京都に迫りましたが、占領を長く維持することはできませんでした。和睦の仲介から幕府への帰属、そして南朝への復帰という転換は、両陣営の政治状況と結び付いています。

  • 1348年に兄の正行が四条畷の戦いで没した後、東条を拠点とする南朝軍の中心となった。
  • 幕府内部の対立で南朝に移った武将と協力し、京都への進攻を繰り返した。
  • 幕府との和睦交渉に携わったが合意には至らず、1369年に幕府へ降った。
  • 幕府方の河内守護として活動した後、1382年に南朝へ戻った。
  • 1386年の文書によって晩年の活動が確認できるが、生年と没年は確定していない。

父と兄を失い、河内の南朝軍を率いる

1348年、兄・楠木正行の戦死によって一族を率いる

楠木正儀(くすのきまさのり)は、鎌倉幕府の倒幕で活躍した楠木正成の三男として生まれました。生年は明らかになっていませんが、兄には正行や正時がおり、父と兄たちが南朝を支えるなかで成長したと考えられています。

建武3年(1336年)、父の正成は湊川の戦いで足利尊氏の軍に敗れ、戦死しました。その後、後醍醐天皇が吉野に南朝を開くと、楠木氏は河内を拠点として幕府方との戦いを続けます。

父の死後に一族を率いたのは長兄の正行でした。しかし正平3年(1348年)1月5日、正行は四条畷の戦いで高師直の軍に敗れ、弟の正時とともに戦死してしまいます。

この敗戦によって楠木氏は有力な武将を失い、南朝の軍事力も大きな打撃を受けました。正儀は兄たちの死後、一族の中心となり、河内に残された南朝軍を率いる立場となります。

高師泰の東条攻撃を退け、河内の拠点を守る

四条畷の戦いから3日後の正平3年(1348年)1月8日、高師直の弟・高師泰は、楠木氏の本拠である河内国東条への攻撃を始めました。東条は現在の大阪府富田林市周辺にあたる地域で、南朝方の軍勢が長く拠点としていた場所です。高師泰は石川の河原に陣地を築き、軍勢を交代で配置しながら、東条へ進軍する機会をうかがいました。

これに対して正儀は、和田助氏らの武士とともに東条を守り、幕府軍の侵入を防ぎます。同年3月18日・19日には佐備谷口で戦闘が起こり、南朝方の武士たちは高師泰の軍勢を迎え撃ちました。

高師泰はその後も攻撃を続けましたが、東条の奥深くまで進むことはできませんでした。戦いは長期化し、四条畷の敗戦から1年8か月ほどが過ぎても、幕府軍は楠木氏の拠点を攻略できなかったのです。

正儀は兄の死後、直ちに大規模な反攻を始めたわけではありません。まず東条を守り抜き、南朝が河内で戦い続けるための軍事的な基盤を維持しました。この抵抗によって、南朝は畿内南部に軍勢を残すことができ、その後の京都進攻につながる足場を失わずに済んだのです。

和田氏や淡輪氏を従え、和泉へ勢力を広げる

正儀が率いた軍勢は、楠木一族だけで構成されていたわけではありません。河内の和田氏をはじめ、和泉や摂津の武士たちも加わり、各地で幕府軍と戦っていました。

そのなかには、もともと幕府方に属していた武士もいます。和泉の淡輪助重は、1348年には高師泰の軍勢に従い、東条攻撃に参加していました。しかし正平6年(1351年)には正儀のもとに加わり、和泉各地で南朝方として活動しています。

こうした武士の動きは、当時の軍忠状から確認できます。軍忠状とは、武士が戦闘でどのような働きをしたかを記し、恩賞を求めるために提出した文書です。正儀は新たに味方となった武士たちを取り込み、河内だけでなく和泉方面でも攻勢を強めていきました。

その背景には、幕府内部で起きた観応の擾乱があります。足利氏の内部対立によって幕府方の武士たちが分裂したことで、正儀はそれまで敵対していた勢力を味方に加え、軍事活動を広げる機会を得たのです。

観応の擾乱を利用して京都へ進攻する

1352年、正平一統の破綻によって京都を攻撃する

観応年間、室町幕府では足利尊氏と弟の直義が対立し、両者を支持する武士たちが各地で戦うようになりました。幕府内部で争いが続いたことは、京都の奪還を目指す南朝にとって好機となります。

正平6年(1351年)、尊氏は直義との戦いを有利に進めるため、南朝の後村上天皇に降伏する形で和睦しました。これによって一時的に南北両朝が統一されることになり、「正平一統」と呼ばれています。

しかし、この和睦は長続きしませんでした。

翌正平7年(1352年)、南朝は幕府方への攻勢を再開し、正儀も北畠顕能らとともに京都へ進軍します。南朝軍は京都を守る足利義詮の軍勢を退け、都を占領しました。後村上天皇も男山八幡へ進み、南朝は京都の支配を回復しようとします。しかし、義詮は軍勢を立て直して反撃し、南朝軍は短期間で京都から撤退することになりました。

正儀たちは都へ攻め入ることには成功しましたが、周辺地域の武士を十分に従わせ、幕府軍の反攻を防ぐまでには至りませんでした。

1353年、山名時氏と協力して再び京都を占領する

正平8年(1353年)、正儀は再び京都への進攻を開始しました。このとき正儀と協力したのが、山名時氏や石塔頼房らです。山名時氏は以前、幕府方として楠木氏と戦っていましたが、足利氏内部の争いを背景に幕府と対立し、南朝方として行動するようになっていました。

正儀はこうした武士たちと軍勢を合わせ、同年6月に京都を攻撃します。南朝軍が迫ると義詮は後光厳天皇を伴って都を離れ、美濃へ退きました。

正儀らは再び京都の占領に成功しましたが、その支配も長くは続きませんでした。義詮に従う赤松則祐らが反撃に加わり、幕府軍が京都へ迫ったことで、南朝軍は翌7月に都から退きます。正儀にとって、京都を占領できても、その後の支配を維持できないという問題が繰り返されていました。

幕府に不満を抱く武士たちとの協力によって兵力を集めることはできましたが、それぞれの武士が同じ目的で戦い続けるとは限りません。正儀は京都への攻勢を続けながらも、都を長期間支配することの難しさに直面していたのです。

1361年、細川清氏とともに三度目の京都進攻を行う

正平16年(1361年)、幕府内部で新たな対立が起こりました。

幕府の執事を務めていた細川清氏が、佐々木道誉らとの対立によって失脚し、南朝へ帰順したのです。清氏は幕府の軍事や政治に深く関わってきた人物で、その離反は南朝にとって京都を攻撃する新たな機会となりました。

同年12月、正儀は清氏や石塔頼房らと協力し、京都へ進軍します。南朝軍は幕府方を退け、再び都を占領しました。

しかし、このときも幕府軍は態勢を立て直して反撃に転じます。南朝軍が京都にとどまれた期間はおよそ20日で、正儀らは翌年初めまでに都から撤退しました。

正儀は1352年、1353年、1361年と繰り返し京都への進攻に関わりましたが、いずれも幕府を倒して都の支配を確立するまでには至りませんでした。戦いを重ねても南北朝の対立を終わらせることはできず、正儀はやがて軍事行動とは別の方法で決着を探るようになります。

禁制を出し、軍勢による乱暴を取り締まる

正儀は南朝軍を率いて戦う一方、軍勢の行動を取り締まる命令も出していました。正平16年(1361年)9月には、摂津国尼崎の大覚寺に対して「楠木正儀禁制」を発給しています。禁制とは、寺社や地域に対して軍勢の乱入や乱暴などを禁じる文書です。

この禁制では、軍勢やその他の者が寺院へ押し入り、乱暴を働くことを禁止しました。当時は戦いのたびに多くの武士が移動しており、寺社や住民が軍勢による略奪や損害を受けることもあったためです。

正儀は軍勢を集めて戦場へ送り込むだけでなく、従う武士たちの行動を制限し、現地の秩序を維持しようとしていました。

この文書は現在、兵庫県指定文化財として伝えられており、正儀が具体的にどのような命令を出していたのかを知る手がかりとなっています。

南北朝の和睦を目指し、幕府へ帰順する

1367年、佐々木道誉と和睦交渉を進める

京都への進攻を繰り返しても南朝は勝利を収められず、正儀は幕府との和睦を目指すようになりました。

正平22年(1367年)、正儀は幕府方の佐々木道誉と交渉を進め、南北両朝の対立を終わらせようとしました。道誉は足利尊氏や義詮に仕えた有力な武将で、幕府の政治にも大きな影響力を持っていました。

交渉は一時、南朝の使者が京都へ赴き、将軍・足利義詮と直接面会する段階にまで進みます。しかし、南朝側が持参した後村上天皇の綸旨には、幕府を降伏する側として扱う文言が含まれていました。綸旨とは、天皇の意思を伝える文書のことです。南朝としては天皇のもとへ幕府が従う形を求めていましたが、義詮はその扱いに反発し、和睦を受け入れませんでした。

正儀はその後も使者を京都へ送り、幕府側との交渉を続けました。しかし同年12月に義詮が亡くなり、翌正平23年(1368年)には後村上天皇も亡くなったため、交渉はまとまらないまま終わります。

長年にわたって戦いを続けてきた正儀にとって、和睦によって南北朝の対立を終わらせることは重要な選択肢となっていました。しかし、双方が朝廷や幕府の立場を譲らなかったことで、その実現は難しくなっていたのです。

1369年、細川頼之を通じて足利義満に降伏する

後村上天皇の死後、南朝では長慶天皇が即位しました。長慶天皇は幕府との和睦に消極的だったと考えられており、正儀が進めてきた講和の実現はいっそう難しくなります。

一方、室町幕府では若い足利義満を補佐する管領の細川頼之が南朝への対応を進めていました。頼之は河内で長く戦ってきた正儀を幕府側へ取り込むことで、南朝の軍事力を弱めようとします。

正平24年(1369年)1月、正儀の降伏が幕府によって認められました。正儀はその後、管領の頼之を通じて幕府との関係を整え、同年4月2日には京都で頼之と面会します。翌3日には義満にも謁見し、正式に幕府へ帰属しました。

この決断の背景には、和睦交渉の失敗や南朝内部での立場の変化があったと考えられています。重要なのは、正儀が長年の戦いを経て幕府との和平を模索し、その交渉が行き詰まった後に、自ら幕府へ帰属する道を選んだことです。

幕府への帰順によって楠木一族が分裂する

正儀の降伏は、楠木氏に従っていた武士たちの間に大きな混乱をもたらしました。

それまで南朝のために戦ってきた和田氏や橋本氏らのなかには、幕府へ従うことを拒む者もいました。楠木一族の内部にも正儀の決断に反対する勢力があり、同じ南朝軍として活動してきた武士たちが敵味方に分かれることになります。

正儀が長く拠点としていた東条でも対立が起こり、幕府は正儀を支援するため、摂津守護の赤松光範らを派遣しました。

正儀は東条の館を離れて天王寺へ移り、幕府方の支援を受けながら、かつての味方と戦うことになります。

正儀が幕府に帰属したことで、河内の南朝軍がそのまま幕府方へ移ったわけではありませんでした。正儀に従う武士と南朝に残る武士の対立が生まれ、長年ともに戦ってきた一族の関係も崩れてしまったのです。

幕府の河内守護として南朝と戦う

河内・和泉の守護となり、領国の支配に関わる

幕府に帰属した正儀は、河内・和泉の守護に任じられました。守護とは、幕府から一国の軍事や警察などの権限を与えられた役職です。正儀は以前から南朝方として河内や和泉で活動していましたが、幕府の守護となったことで、今度は義満の命令を受けて地域を治める立場となりました。

応安2年(1369年)5月には、河内で南禅寺の材木を運ぶ船への妨害行為を停止するよう命じています。これは寺院の材木輸送を妨げる行為を取り締まるもので、正儀が守護として河内の土地や交通に関わる問題を処理していたことを示しています。

また、正儀は南朝時代からの家臣である河野辺駿河守を引き続き用い、守護としての命令を現地で実行させていました。

このように正儀は、幕府へ降伏した後も単に軍勢を率いるだけでなく、河内や和泉の守護として地域の支配に関わっていました。

1373年、幕府軍を案内して南朝の行宮を攻める

文中2年(1373年)、幕府は南河内に拠点を置く南朝への大規模な攻撃を開始しました。このとき幕府軍を率いたのは細川氏春で、摂津守護の赤松光範らも加わっていました。正儀も幕府方として出陣し、長年活動してきた南河内の地理に詳しい武将として軍勢を案内します。

同年8月10日、幕府軍は天野山金剛寺に置かれていた南朝の行宮を攻撃しました。行宮とは天皇が一時的に滞在する御所のことで、当時の南朝は長慶天皇のもと、金剛寺を重要な拠点としていました。

戦いでは南朝方の四条隆俊らが討死し、南朝軍は敗北します。これによって南朝は金剛寺を離れ、吉野へ退くことになりました。

正儀はかつて南朝のために戦ってきた地域へ、今度は幕府方の武将として攻め込んだのです。

1369年の幕府帰順は、正儀が南朝との戦いをやめたことを意味しませんでした。むしろ幕府の守護となった正儀は、以前の味方と戦いながら、河内での支配を維持しようとしていました。

南朝への復帰と晩年の活動

1382年、細川頼之の失脚後に南朝へ戻る

天授5年(1379年)、幕府では康暦の政変が起こり、管領の細川頼之が失脚しました。頼之は正儀の幕府帰順を受け入れ、その後も政治的な後ろ盾となっていた人物です。

頼之が京都を追われると、正儀は幕府のなかで重要な支援者を失いました。また、幕府内部の政治情勢が変化するなか、正儀が河内や和泉で守護としての権限を維持することも難しくなっていきます。

こうした状況を背景に、弘和2年(1382年)閏1月、正儀は幕府を離れ、再び南朝へ帰属しました。

正儀が幕府から離れた理由については、頼之の失脚による政治的な孤立や、守護職をめぐる問題などが指摘されています。ただし、それらの事情のどれが決定的だったのかは明らかではありません。

南朝は帰参した正儀を受け入れ、河内や和泉での活動を再び認めました。正儀は幕府の守護として戦っていた立場から、再び南朝を支える武将へ戻ることになったのです。

1383年、南朝の参議となる

弘和3年(1383年)12月、正儀は南朝の参議に任じられました。参議とは朝廷の政治に参加する公卿の官職で、正儀は軍事を担う武将としてだけでなく、南朝の政務に関わる立場も与えられたことになります。

正儀は長年にわたって南北両朝の間で戦い、和睦交渉にも携わってきました。南朝への復帰後に参議へ任じられたことは、その経験が朝廷でも重んじられていたことを示しています。

また、正儀は河内の武士たちとの関係を保ち、土地の支配権を認める命令を出すなど、地域での活動も続けていました。

幕府に帰属した際には一族の分裂を招いた正儀でしたが、南朝へ戻った後も、河内や和泉で長く築いてきた武士たちとの関係をもとに活動していたのです。

1386年、土地の支配権を認める文書を残す

元中3年(1386年)4月19日、正儀は淡輪長重に対して土地の知行を認める文書を発給しました。

淡輪氏は和泉を拠点とする武士の一族で、正儀が南朝軍を率いていた頃から関係を持っていました。正儀が幕府と南朝の間で立場を変えた後も、淡輪氏との関係は続いていたことになります。

この文書では、淡輪長重に河内国の所領を知行させることが認められています。知行とは、土地を支配してそこから収入を得る権利のことで、武士にとって重要な経済的な基盤でした。

正儀は晩年になっても、従う武士たちの土地の権利を認めるなど、領国の支配に関わる命令を出していました。

晩年の消息と南北朝の合一

正儀がいつ、どこで亡くなったのかは明らかになっていません。元中3年(1386年)の文書を最後に、その後の活動を確実に伝える史料は乏しくなります。後世には1389年頃に亡くなったとする説などもありますが、没年を確定することはできません。

その後、元中9年(1392年)には明徳の和約が成立し、南北朝の分裂は終わりを迎えました。しかし、正儀がこの和約の成立に直接関わったことや、合一の実現を見届けたことは確認できません。

正儀は父の正成や兄の正行と同じく南朝を支える武将として活動を始めましたが、その生涯は一つの陣営で戦い続けたものではありませんでした。

兄の死後に河内の南朝軍を率い、京都を繰り返し攻撃したものの、幕府を倒すことはできませんでした。そこで幕府との和睦を模索しましたが、交渉は失敗に終わり、1369年には幕府へ帰順します。その後も河内守護として南朝と戦いましたが、政治情勢の変化によって1382年に再び南朝へ戻りました。

楠木正儀は、父や兄の後を継いで南朝の軍事力を支えながら、戦いだけでは南北朝の対立を終わらせられない状況に直面し、講和交渉や幕府への帰順によって活路を探った武将でした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました