【日本史】高師泰とは?高師直の弟が担った河内攻防と観応の擾乱

南北朝時代

高師泰(こうのもろやす)は、南北朝時代の武将で、室町幕府の執事として力を持った高師直の弟です。楠木正行との戦いの後には河内で南朝方の拠点を攻め、長く続く攻防の中心に立ちました。

兄の師直ほど名前が知られていなくても、師泰の動きを追うと、幕府の勝利がそのまま河内全域の掌握を意味したわけではないことが分かります。南朝との戦いと幕府内部の対立をたどります。

ひと目でわかる高師泰

高師泰は高師直の弟で、1347年末から河内守護を務め、1348年の四條畷の戦い後に南朝方の東条を攻撃しました。攻防は長期化し、のちに観応の擾乱で兄とともに失脚しました。

  • 高師直の弟で、足利方の有力武将
  • 1347年末から河内守護を務めた。
  • 四條畷の戦いの後、古市・東条へ進んだ。
  • 石川沿いに陣を構え、南朝方との戦った。
  • 観応の擾乱で兄とともに敗れた。

高師泰が河内へ向かった背景

四條畷の後に石川沿いへ陣を構える武士

高師直の弟として幕府を支える

高師泰は、足利尊氏に仕えた高一族の武将です。兄の高師直は幕府の執事として政務と軍事に強い影響力を持ち、師泰も足利方の軍勢を率いました。

足利尊氏が政権を築いた後も、畿内では南朝の拠点が残り、京都に近い河内・和泉の情勢は落ち着きませんでした。河内の守護は、地域の武士を動員し、戦闘と支配の双方に対応する役目です。高一族が京都の政権内で力を持つ一方、師泰はこうした地域の戦いに深く関わっていきます。

楠木正行の攻勢と守護の交代

1347年、楠木正成の子である楠木正行が河内・紀伊で攻勢を強めました。幕府方の河内守護だった細川顕氏は、藤井寺や住吉・天王寺で楠木正行方に敗れます。京都に近い地域で南朝方が前進したため、幕府は指揮を立て直さなければなりませんでした。1347年12月から師泰が細川顕氏の後を受けて河内守護に就任します。

守護の交代は、単なる人事ではなく、南朝方を押し戻す軍事的な対応と結びついていました。河内での任務が、後の長い攻防につながっていきました。幕府はすぐに次の戦いに備えて軍勢を組み直します。

四條畷の後も続いた河内の戦い

観応の擾乱で揺れる京都の武士たち

古市から東条へ進む

1348年1月、足利方は四條畷で楠木正行を破りました。正行は戦死しましたが、南朝方の拠点がただちに消えたわけではありません。師泰は1月8日に堺を出て古市を攻め、14日と2月8日にも東条へ攻撃を加えました。正行の弟である楠木正儀らは抵抗を続けます。

師泰の軍には和泉の淡輪助重、田代了賢らが加わり、南朝方にも和田助氏らが残っています。四條畷の勝利の後も戦いは続き、師泰は河内にとどまり続けました。

石川の陣と長い攻防

師泰は石川の河原に向城を構え、東条の南朝方に圧力をかけました。陣の位置には現在の河南町大ケ塚付近と富田林市甲田付近の見方があり、正確な場所は一つに定まっていません。1348年には佐備谷口や天野二王山などで戦い、翌年も寺田、山田、日野高岡周辺まで攻防が続きます。師泰方の森本為時らは交代で陣を守り、戦いが起きれば出動しました。

四條畷から一年八か月を経ても、師泰方は東条の奥へ入れませんでした。長い膠着状態が続き、兵の交代を続けるだけでも、周辺の武士に負担がかかりました。

観応の擾乱と師泰の最期

直義が石川向城を奪い、師泰討伐を掲げる

南朝方と戦う一方、幕府の内部では尊氏の弟足利直義と高師直の対立が深まりました。政務を担う直義と、軍事で力を持った師直をめぐり、武士たちの結びつきも分かれていきます。

観応元年(1350年)10月、直義は京都を離れて大和へ向かい、11月3日に各地の武士へ師直・師泰兄弟の討伐を呼びかけました。11月21日には畠山国清のいる河内の石川向城へ入ります。石川向城は、師泰が東条の南朝方に備えて築いた拠点でしたが、師泰に従っていた田代了賢らも直義方へ転じました。師泰が河内支配のために整えた城と軍勢に、逆に兄弟が追い詰められてしまいます。

直義は南朝にも降伏を申し入れ、12月13日に認められました。これにより石川向城と東条の南朝方は敵対関係を解き、直義は天王寺から八幡へ進みます。西国に出陣していた尊氏と師直らは引き返しましたが、翌年1月には直義方が京都を占領しました。

打出浜の敗戦と武庫川で迎えた最期

観応2年(1351年)2月17日、足利尊氏方は摂津の打出浜で直義方に敗れました。尊氏と直義は20日に講和し、師直と師泰は翌21日に出家します。兄弟が政治と軍事の表舞台を退くことが、和議を成立させる条件でした。河内で南朝方を攻めてきた師泰も、この敗戦によって守護として軍を率いる立場を失いました。

しかし、出家しても兄弟の命は守られませんでした。京都へ戻る途中の摂津・武庫川で、師直と師泰は直義方の上杉能憲に襲われ、殺害されました。能憲は上杉憲顕の子で、1349年に師直方によって命を落とした上杉重能の養子です。幕府を二分した対立は、講和だけでは収まらない深い遺恨を残していました。

師泰の死により、高一族が河内に築いた軍事的な足場は崩れ、守護職も高師秀や畠山国清らへ移っていきました。直義は再び幕府の政務を担いましたが、尊氏との対立はその後も続きます。

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