桃井直常(もものい なおつね/ただつね)は、南北朝時代に足利直義を支え続けた武将です。足利一門に連なる家柄をもち、若狭・伊賀・越中の守護を歴任しながら、幕府成立期の戦いで頭角を現しました。
直常の名が大きく現れるのは、足利尊氏と弟・直義が争った観応の擾乱です。直常は越中の軍勢を率いて京都へ進み、直義方の勝利に貢献しました。直義の死後も抗戦を続けた生涯をたどると、南北朝時代の争いが全国へ広がった理由も見えてきます。
ひと目でわかる桃井直常
桃井直常は、足利氏の支流に生まれ、幕府草創期から各地を転戦した武将です。観応の擾乱では足利直義方の中核となり、京都占領や北陸での抵抗を通じて大きな存在感を示しました。
- 足利氏の支流・桃井氏に生まれた南北朝時代の武将
- 若狭・伊賀・越中の守護を歴任した
- 観応の擾乱で足利直義を支持し、1351年に京都を占領した
- 直義の死後も足利直冬や南朝と結び、尊氏方への抵抗を続けた
- 1371年ごろに越中で敗れ、その後の動向はわかっていない
足利一門の武将・桃井直常
足利氏の支流として幕府草創期を戦う
桃井氏は足利氏から分かれた一族で、上野国群馬郡桃井郷を名字の地としました。直常は桃井貞頼の子とされ、鎌倉幕府が滅んだのち、足利尊氏のもとで新しい武家政権の形成に加わります。建武政権と尊氏の対立が深まると、直常も足利方の武将として戦いました。
1338年、奥州から西上した北畠顕家の軍勢に対し、美濃の土岐頼遠らとともに進路を阻んだのが青野原の戦いです。顕家軍は足利方の防衛線を突破しましたが、その後は伊勢・大和方面へ進まざるを得ず、京都への直進を果たせませんでした。直常は続く大和での戦いにも参加し、顕家軍を退けたことで武名を高めます。
若狭・伊賀・越中の守護を歴任する
軍功を重ねた直常は、駿河守・刑部大輔・右馬権頭・播磨守などの官途を帯び、若狭・伊賀の守護を経て、1344年には越中守護となりました。守護は国内の軍勢をまとめ、治安維持や幕府命令の伝達を担う役職です。直常が複数の国を任されたことは、尊氏政権のなかで重く用いられていたことを示します。
とくに越中は北陸道を押さえ、京都と東国を結ぶうえで重要な土地でした。一方、南北朝の争いが続く時代には、守護の地位がそのまま安定した支配を意味したわけではありません。直常は在地の武士や寺社勢力に協力を求め、軍勢を組織しながら領国をまとめました。
越中で築いたこの基盤は、やがて中央の政争が武力衝突へ変わったとき、直常が大軍を率いて京都へ向かう力になります。
観応の擾乱で足利直義を支える

高師直と直義の対立に直義派で参加する
室町幕府の初期には、将軍尊氏が軍事を率い、弟の足利直義が政務や裁判を担う体制がとられました。しかし、尊氏の執事で武功派の武将をまとめる高師直と直義の対立が深まると、幕府は二つの陣営に割れていきます。これが観応の擾乱です。
直常は迷わず直義方に立ちました。直義が1350年に京都を離れ、南朝へ降伏して師直討伐を掲げると、直常は越中から兵を集めて南下します。直常の選択は、直義が主導してきた政務と秩序を守ろうとする立場を貫き、北陸における直義方の最大級の軍事力となったのです。そのため内紛は京都周辺にとどまらず、越中を含む各地の武士を巻き込む全国的な争いへ発展しました。
1351年に京都を占領し直義方を勝利へ導く
1351年1月15日、直常は北陸の軍勢を率いて京都を占領しました。備中から引き返した尊氏は都の奪回を図りましたが果たせず、丹波を経て播磨へ退きます。直常の入京によって直義方は京都を押さえ、戦いの主導権を握りました。続く2月の打出浜の戦いでも直義方が優勢となり、尊氏は高師直・高師泰兄弟の出家を条件に講和を受け入れます。
直常は地方の守護でありながら、中央政局の行方を変えるほどの軍事力を示したのです。ただし、勝利によって対立が解消したわけではありません。直義と尊氏の和解は長続きせず、直義が北陸へ向かうと直常も行動をともにしました。
直義の死後も続いた抵抗

足利直冬・南朝と結び尊氏方と戦う
1352年、直義が鎌倉で急死すると、直義方の武将たちは大きな支柱を失いました。それでも直常は尊氏方へすぐには従わず、尊氏の子で直義の養子となった足利直冬や南朝勢力と連携します。同じ年には南朝方の新田義興・義宗らが関東へ進み、尊氏と戦う武蔵野合戦が起きました。畿内や北陸でも戦いが続き、観応の擾乱で生じた幕府の分裂は、直義の死だけでは終わらなかったのです。
直常は直冬方の軍勢とともに京都へ迫り、尊氏・義詮方を繰り返し脅かしました。彼の行動は個人的な忠誠だけでなく、幕府内部で敗れた側が南朝や地方勢力と結び直すことで、なお戦いを続ける、そのような当時の状況を映しています。
越中を拠点に1371年ごろまで抗戦する
直常にとって越中は、守護として築いた支配基盤であると同時に、尊氏方へ抵抗するための重要な拠点でした。山地と平野が近く、北陸道を通じて京都や東国へ動ける越中では、松倉城などの山城を押さえ、在地勢力の協力を得ながら戦いを続けました。
1366年にはいったん幕府へ帰順し、翌年には出家しますが、その後も再び兵を挙げ、能登方面へも動いています。幕府側は越中守護の斯波義将や能登守護の吉見氏頼を中心に討伐を進め、1369年には桃井方の拠点が相次いで攻められました。
1370年には直常の子・直和が討ち死にし、1371年ごろには直常らも越中で敗れます。その後の行方はわかっていません。直常の長い抵抗は最終的に実りませんでしたが、京都の政争が北陸の城や地域社会にまで及び、南北朝の争いを長期化させた過程を伝えています。
桃井直常は、幕府を支えた足利一門の武将から、幕府に抗し続ける直義派の中心人物へと立場を変えました。その歩みを追うことで、観応の擾乱が兄弟の争いだけではなく、地方の守護や武士を巻き込んだ全国規模の内乱だったことがわかります。


コメント