【日本史】青野原の戦いとは?北畠顕家と足利軍の激戦を解説

南北朝時代

青野原の戦いは、延元3年・暦応元年(1338)1月、美濃国青野原で北畠顕家が率いる南朝方の奥州軍と、土岐頼遠ら足利方の軍勢が衝突した合戦です。顕家は後醍醐天皇の命を受け、足利尊氏の勢力を京都から退けるため、義良親王を奉じて奥州から西へ進んでいました。

戦場では南朝方が足利方を退けましたが、損害は小さくなく、近江方面の防備を突破できなかったため、そのまま京都へ進むことはできませんでした。本記事では、合戦が起こった背景、両軍の動き、勝利後に顕家が伊勢へ転進した理由、南北朝の戦局に与えた影響を時系列に沿って解説します。

ひと目でわかる青野原の戦い

1338年、北畠顕家が率いる南朝軍は美濃国の青野原で土岐頼遠ら足利方と戦い、勝利しました。しかし軍の消耗と近江方面の守りにより京都へ直進できず、伊勢へ進路を変えました。

  • 1338年1月、美濃国青野原で行われた
  • 南朝方は北畠顕家が率いる奥州軍だった
  • 足利方では土岐頼遠らが迎撃した
  • 顕家は義良親王を奉じて京都を目指していた
  • 戦闘では南朝方が優勢となり足利方を退けた
  • 南朝方も大きく消耗し、京都へ直進できなかった
  • 顕家は伊勢方面へ転進し、のちに畿内へ入った
  • 同年5月、顕家は和泉国石津で戦死した

青野原の戦いの概要

青野原の戦いの基本情報

青野原の戦いは、南北朝の内乱が始まって間もない時期に行われた合戦です。場所は美濃国青野原で、現在の岐阜県大垣市から垂井町周辺に当たります。南朝方の中心は陸奥国府を拠点としていた北畠顕家で、義良親王、結城宗広、伊達氏・南部氏など奥州の武士を伴って西上しました。北条高時の遺児である北条時行も顕家の軍に加わっていたとされます。これに対し足利方では、美濃の有力武士である土岐頼遠らが迎撃しました。

なお、当時は南朝が延元、北朝が暦応という異なる元号を用いていたため、同じ1338年が史料によって「延元3年」「暦応元年」と記されます。

南朝の勝利でも戦局を決められなかった

青野原では北畠軍が足利方を敗走させたため、戦闘結果だけを見れば南朝方の勝利です。しかし、この勝利は京都奪回へ直結しませんでした。顕家の軍は奥州から鎌倉、美濃へと長距離を進み、各地で戦闘を重ねていました。兵力を維持するには食料や馬、武具を確保し、参加した武士の所領や利害にも配慮する必要があります。青野原で受けた損害に加え、長い行軍による疲労も軍の行動を制約しました。

さらに近江方面には高師泰ら足利方の部隊が配置され、京都へ向かう経路を固めていました。顕家は美濃から近江を抜ける進路を選ばず、伊勢へ南下します。このため青野原の戦いは、南朝軍が局地的には勝利しながら、戦略上の目的である京都進出を果たせなかった合戦として位置づけられます。南北朝の戦いでは、合戦の勝敗だけでなく、兵站、進路、地域武士の動向がその後の戦局を決めたことが分かります。

青野原の戦いが起こるまで

足利尊氏の離反と南北朝の成立

1333年に鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は天皇を中心とする政治を目指して建武の新政を始めました。しかし、恩賞や所領処理をめぐる不満が武士の間に広がり、足利尊氏は中先代の乱を鎮圧した後、鎌倉で独自の動きを強めます。後醍醐天皇は新田義貞らを派遣しましたが、尊氏は京都を占領し、いったん九州へ退いた後に再び東上しました。

尊氏は光明天皇を擁立して京都に政権を築き、後醍醐天皇は吉野へ移って自らの皇統の正統性を主張します。こうして京都の北朝と吉野の南朝が並び立つ南北朝時代が始まりました。後醍醐天皇は各地の皇子と南朝方の武将を結びつけ、東国・北陸・九州などから京都を包囲しようとします。その中で奥州の軍事力を担ったのが、北畠親房の子である北畠顕家でした。

北畠顕家が奥州から再び西上する

北畠顕家は後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じ、陸奥守兼鎮守府将軍として奥州経営を担いました。1335年から1336年にかけての最初の西上では、奥州の軍勢を率いて足利尊氏を京都から九州へ退かせる働きを見せています。その後は奥州へ戻りましたが、足利方の反撃によって多賀国府を維持することが難しくなり、拠点を霊山へ移しました。

1337年、顕家は後醍醐天皇の要請を受けて二度目の西上を開始します。義良親王を奉じ、結城宗広ら奥州の武士を率いて関東へ進みました。途中で鎌倉を攻略し、足利方の斯波家長を敗死させた後、東海道を西へ向かいます。短期間で奥州から鎌倉を経て美濃に到達した行軍は顕家軍の機動力を示しましたが、連戦と長距離移動は兵士や軍馬を消耗させ、補給を不安定にする要因にもなりました。

青野原での両軍の戦い

土岐頼遠ら足利方が美濃で迎撃する

美濃国は東国から京都へ向かう交通路の要地でした。顕家軍が美濃へ進むと、足利方は東海道・東山道から京都へ入る動きを阻止する必要に迫られます。迎撃の中心となった土岐頼遠は、美濃に基盤を持つ土岐氏の有力武将です。軍記物語『太平記』は、頼遠が青野原で激しく戦った姿を詳しく描いています。

顕家軍には奥州以来の配下だけでなく、鎌倉攻略の過程で合流した勢力も加わっていました。一方の足利方は地域の地理と交通路を把握し、近江方面の防衛部隊とも連携できる位置にありました。青野原は両軍にとって、単なる一戦場ではなく、京都への入口を争う地点でした。

北畠軍が勝利するが大きく消耗する

戦闘では北畠軍が足利方を押し、土岐頼遠らの軍勢は敗走しました。顕家は鎌倉攻略に続いて美濃でも勝利し、南朝方の軍事力を示します。北畠軍は勝ったものの、足利方を完全に崩壊させたわけではありませんでした。激戦によって顕家軍も多くの兵力を失い、近江方面にはなお足利方の防衛線が残ります。

戦場で敵を退けても、京都まで軍を進めて占領し、継続的に支配できなければ作戦の目的は達成できません。北畠顕家は戦力を立て直す余裕を得られないまま、別の経路から畿内を目指すことになりました。

青野原の戦い後と歴史的な影響

北畠顕家は伊勢から畿内へ進む

青野原の戦い後、北畠顕家は近江を経て京都へ直進せず、伊勢方面へ転進しました。伊勢には南朝方と関係の深い勢力があり、海上交通を利用して兵力や物資を補う可能性もありました。顕家は伊勢から伊賀・大和方面を経て畿内に入り、足利方との戦闘を続けます。しかし、奥州を出発した時点から続く長期遠征で軍勢は疲弊し、各地の足利方を相手にする中で戦力を減らしていきました。

顕家は河内や摂津方面で戦いましたが、京都を安定して奪還することはできませんでした。1338年5月、和泉国の石津で高師直らの軍勢と戦い、21歳で戦死します。青野原から約4か月後のことでした。顕家の死により、南朝は奥州から大軍を率いて畿内へ進出できる指揮官を失います。青野原での勝利が最終的な成果に結びつかなかったのは、南朝が抱えた兵站と継戦能力の限界を示しています。

南北朝の内乱に残した意味

青野原の戦いは、南朝方が広い地域から軍勢を集め、足利政権の中心である京都を脅かす力を持っていたことを示しました。奥州から鎌倉、美濃、伊勢、畿内へと続いた顕家の行軍は、南北朝の争乱が京都周辺だけの戦いではなく、東北から西日本までを結ぶ全国規模の内乱だったことを物語ります。

北畠顕家の戦死後も、新田義貞、北畠親房、宗良親王らは各地で南朝の勢力を支えましたが、京都の足利政権は次第に統治機構を整えていくことになります。

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