【日本史】斯波義将

室町時代

斯波義将(しば よしゆき)は、南北朝から室町初期にかけて幕府政治の中枢に関わり続けた武将であり、管領として長期にわたり政務を担った人物です。父である足利高経の影響のもとで若年から幕府に関与し、その後は政敵との対立や軍事行動を経ながら地位を確立していきます。本記事では、そんな斯波義将について詳しく解説します!

幼少期と管領就任

幼少期と父・高経の後見

斯波義将は観応元年(1350年)、有力守護である足利高経の四男として生まれました。父は北陸方面で軍事的実績を重ねる一方、幕府政務にも深く関与していた人物であり、そのもとで義将は早くから政治的環境の中に置かれました。延文5年(1360年)には11歳で元服し、従五位下治部大輔に叙任されます。この時期、幕府では将軍足利義詮を補佐する執事職が空席となっており、政務体制の再編が進められていました。

義将は父の後見を受けながら成長し、斯波氏一門の中でも重要な位置を占める存在として扱われていきます。父が幕府内で強い影響力を持っていたことにより、義将もまた政治の場に関わる機会を得ることとなり、若年ながら将来の中枢人材としての扱いを受けていました。こうした状況のもとで、義将は幕府政務に関与する準備が整えられていきました。

若年での管領就任と幕政関与

貞治元年(1362年)、義将は13歳という若さで執事、すなわち管領職に就任します。この就任は父高経の後見に加え、有力守護である佐々木道誉らの関与によって実現しました。当時の幕府では細川清氏の失脚後、執事職が空白となっており、その後任として義将が選ばれた形です。同時に越前に加えて越中守護も与えられ、地方支配と幕政の両面に関わる立場に置かれました。

しかし義将はまだ若年であったため、実際の政務運営は父高経が担う形となります。高経は幕政の実権を握り、諸大名や寺社に対して強い姿勢で臨みました。義将はそのもとで管領としての地位にありながら、父の補佐を受ける形で政務に関与していきます。この体制は幕府内での権力集中を生みましたが、同時に他の有力勢力との対立を深める要因ともなりました。

貞治の変と越前逼塞

父の失脚と連動した政変

貞治5年(1366年)8月、幕府内で政変が起こり、義将は父足利高経とともに失脚します。この出来事は貞治の変と呼ばれ、将軍足利義詮の裁定によって高経の幕政関与が停止されると同時に、義将も管領職を退くことになりました。幕府内では細川頼之が新たに台頭し、これまでの政務体制は大きく転換されます。

義将はこの政変により京都を離れ、越前へと下ることになります。幕府中枢で政務に関わっていた立場から一転して地方に退くこととなり、その影響は斯波氏の勢力にも及びました。義将が就いていた管領職も頼之に引き継がれ、幕府の意思決定の中心は別の人物へ移行していきます。こうして義将は一時的に幕政から離れることになりました。

越前での逼塞と情勢の変化

越前へ退いた義将は、父高経とともに領国での生活を余儀なくされます。この間、幕府では細川頼之が管領として政務を担い、京都の政治状況は新たな体制のもとで運営されていました。義将は中央から離れた状態にあり、直接政務に関与することはできませんでしたが、斯波氏の基盤である越前での体制維持に関わることになります。

貞治6年(1367年)に父高経が没すると、状況は変化します。義将はその後、幕府から赦免を受けて再び京都へ戻ることが可能となりました。これにより義将は再び中央政界へ復帰し、以後の活動へとつながっていきます。

越中平定と軍事的活動

桃井氏との戦い

応安元年(1368年)、義将は幕府に復帰すると同時に越中国守護に再任され、桃井直常の討伐を命じられます。桃井氏は観応の擾乱以来、幕府に対してたびたび反抗してきた勢力であり、北陸地域において重要な軍事的存在でした。義将は越中・能登などの兵力を動員し、桃井軍との戦闘に臨みます。

応安2年(1369年)には松倉城を攻め落とし、さらに翌年には長沢の戦いで桃井直常の子である直和を討ち取るなど、戦局を有利に進めていきます。桃井一族はその後も抵抗を続けますが、義将は各地でこれを撃破し、越中の支配を回復していきました。

越中支配の確立

桃井氏の勢力が後退した後も、越中では南朝勢力や周辺勢力との戦闘が続きました。義将は引き続き軍事行動を展開し、応安4年(1371年)には五位荘での戦闘において敵対勢力を撃退します。こうした戦いを経て、越中における幕府の支配は安定していきました。

義将は守護として現地支配にも関与し、守護代や国人層との関係を維持しながら統治を進めていきます。軍事的制圧と統治の両面を担う中で、義将は地方支配の経験を重ねていきました。この時期の活動によって、義将は幕府内における有力守護としての地位を確立していきます。

康暦の政変と管領復帰

細川頼之との対立と御所巻

斯波義将は越中平定後、守護としての実績を背景に幕府内での発言力を強めていきましたが、政務を主導していた管領細川頼之との対立が次第に顕在化していきます。頼之は将軍足利義満の補佐として幕政を掌握していましたが、守護国での紛争処理や人事をめぐって義将と意見が衝突しました。特に越中・越前における支配運営や国人層との関係処理において、両者の方針は一致せず、幕府内での緊張が高まっていきます。

やがて義将は京極高秀や土岐頼康らと結び、反頼之勢力を形成します。永和5年(1379年)、義将はこれらの守護大名を率いて京都で行動を起こし、将軍邸である花の御所を軍勢で包囲しました。この行動は御所巻と呼ばれ、将軍に対して頼之の罷免を求める直接的な圧力として機能しました。幕府中枢を取り囲む形で行われたこの動きにより、義満は頼之の解任を決断することになります。

管領再任と幕政主導

御所巻の結果、細川頼之は失脚して領国へ退去し、その後任として義将が管領に任じられました。これにより幕府の政務は義将を中心とする体制へ移行し、意思決定の主導権も大きく変化します。義将は管領として政所や諸機関の運営に関与し、将軍義満のもとで幕政を担う立場となりました。

義将はまた、一族の配置を通じて幕府内での影響力を強めていきます。弟の義種を加賀守護に任じるなど、斯波氏の勢力は北陸一帯に広がりました。さらに越前守護職の回復によって、本来の本拠地での支配も再確立されます。こうした中で義将は将軍権威のもとで政務に関与し続け、守護大名の動向や領国支配の調整に関わりました。頼之失脚後の幕府は新たな均衡のもとで運営され、義将はその中枢で政務に携わることになります。

晩年と将軍補佐

義満政権下での関与と変化

管領として政務に関与していた義将ですが、やがて将軍足利義満自身の統治力が強まるにつれて、幕政の主導は次第に将軍へと移っていきます。義満は守護大名を統制し、直轄的な政治運営を進めるようになり、管領の役割も相対的に変化していきました。義将は引き続き幕政に関与しつつも、こうした権力構造の変化の中で立場の調整を迫られることになります。

明徳2年(1391年)、義将は管領職を辞し、越前へ帰国します。この時期、幕府内では細川氏が再び影響力を持つ状況が生まれており、義将は中央政界から一定の距離を置く形となりました。ただし、これによって完全に政治から離れたわけではなく、以後も必要に応じて幕府の政務に関与していきます。

義満死後の補佐と最期

応永15年(1408年)に義満が死去すると、幕府は後継体制の調整を迫られます。義将は子の義重を管領職に就けるとともに、自らは宿老として政務に関与し、将軍足利義持のもとで政治運営に携わりました。この時期、義持の弟である義嗣を推す動きもありましたが、義将はこれに対応しながら体制の維持に関わります。

また、義満期に進められていた政策の一部についても見直しが行われ、義将はその過程に関与しました。さらに応永16年(1409年)には出家の身で再び管領に就任し、政務に直接関与する立場に戻ります。その後、孫の義淳へ管領職を譲るなど、一族による幕政関与の維持が図られましたが、応永17年(1410年)に義将は死去しました。長期にわたり幕府政務に関わり続けた義将は、この時期まで中央政治の一角を担い続けていました。

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