赤松政則は、嘉吉の変で没落した赤松氏を再興し、播磨・備前・美作の守護職を回復した人物です。応仁の乱を機に旧領へ進みましたが、再興後も山名氏との戦争と家臣団の対立が続きました。
一度家を復活させれば、その支配が安定したわけではありません。敗戦による追放の動きから巻き返し、幼い後継者を残して亡くなるまでを追うと、守護大名が領国と家臣をまとめる難しさが見えてきます。
ひと目でわかる赤松政則
赤松政則は、嘉吉の変で没落した赤松氏を再興した室町時代の守護大名です。応仁の乱で東軍に加わり、播磨・備前・美作を回復しました。真弓峠の敗戦後には当主交代の危機を乗り越え、山名軍を退けて家の存続を実現しました。
- 嘉吉の変で旧領を失った赤松氏の一族に生まれ、家の再興を担う
- 旧臣による神璽奪還の功績を背景に、赤松氏の幕府への復帰が進む
- 加賀半国の守護職などを得るが、山名氏が支配する旧領の回復が課題となる
- 1467年、応仁の乱で東軍に加わり、山名氏側に対抗する
- 戦いを通じて播磨・備前・美作の守護職を回復し、赤松氏を再興する
- 浦上則宗らに支えられ、領国支配と京都での幕府の職務を担う
- 1483年、真弓峠で山名政豊に敗れ、家臣の一部が別の当主の擁立へ動く
- 別所則治らの支援で巻き返し、1488年に坂本で山名軍を破って但馬へ退かせる
- 1496年に死去し、幼い養子・義村と後見を担う洞松院へ家が引き継がれる
政則は、嘉吉の変後に変わった播磨の勢力配置を再び動かし、赤松氏が守護家として存続する道を開きました。ただし再興は有力家臣の力にも支えられ、その後の赤松氏には当主と家臣団の関係という課題が残りました。
没落した赤松氏の再興
嘉吉の変後に生まれた後継者
赤松政則は1455年、赤松満祐の弟・義雅につながる一族に生まれました。しかし、政則が生まれたころの赤松氏は、かつてのような有力守護ではありませんでした。その原因となったのが、政則の誕生より14年前に起きた嘉吉の変です。
1441年、赤松満祐は将軍・足利義教を自らの屋敷に招き、その場で殺害しました。当然、幕府は赤松満祐を討つために軍勢を送ります。満祐は敗れて自害し、赤松氏は播磨・備前・美作の守護職を失いました。そして赤松氏に代わって播磨などへ勢力を伸ばしたのが山名氏です。
つまり政則は、広大な領国を持つ守護大名の跡継ぎとして生まれたわけではありません。かつて大きな力を持ちながら、将軍暗殺によって没落した一族の後継者として生まれたのです。そんな赤松氏に、再興のきっかけが訪れます。
神璽の奪還と幕府への復帰
南北朝が統一された後も、旧南朝につながる勢力は残っていました。その後南朝側に渡っていたのが、皇位の証となる三種の神器の一つ「神璽」です。
赤松氏の旧臣たちは、後南朝からこの神璽を取り戻す計画に加わりました。そして神璽の奪還に成功すると、その功績が幕府から評価されます。これが、没落していた赤松氏復活の大きなきっかけとなりました。政則を当主とする赤松氏の再興が認められ、加賀半国の守護職などが与えられたのです。
しかし、これで赤松氏が完全に元の姿へ戻ったわけではありません。赤松氏がかつて支配していた播磨・備前・美作には、すでに山名氏が勢力を広げていました。幕府から「赤松氏の復活」を認めてもらうことと、実際に旧領を取り戻すことは別の問題だったのです。政則が播磨・備前・美作を取り戻すには、山名氏と戦わなければなりませんでした。そして、その絶好の機会となったのが1467年に始まった応仁の乱です。
応仁の乱を機に旧領を回復する
東軍への参加と山名氏の領国への進出
1467年、京都で応仁の乱が始まりました。細川勝元を中心とする東軍と、山名持豊を中心とする西軍が争った大乱です。赤松政則は東軍に加わりました。西軍の中心人物である山名持豊は、赤松氏から播磨などを奪った山名氏の当主です。つまり政則にとって応仁の乱は、京都で起きた大名同士の争いというだけではありませんでした。山名氏を倒し、赤松氏の旧領を取り戻す絶好の機会でもあったのです。
政則は山名氏が支配する播磨・備前・美作へ軍勢を進めました。そして山名方と戦いながら、少しずつ旧領を取り戻していきます。その結果、赤松氏は再び播磨・備前・美作の守護として復活しました。
嘉吉の変によって失った三か国を、政則の代になってようやく取り戻したのです。しかし、領国を取り戻しただけでは守護大名として安定したとはいえません。三か国を実際に支配するためには、各地の武士をまとめる必要がありました。そこで政則を支えたのが、浦上則宗ら赤松氏の有力家臣でした。
浦上則宗らに支えられた三か国の統治
旧領を取り戻した政則は、播磨・備前・美作という広い領国を治めることになりました。さらに政則は、幕府の侍所を率いる役職にも就いています。つまり領国を治めながら、京都でも幕府の仕事をしなければなりませんでした。当然、政則一人ですべてを行うことはできません。そこで大きな役割を果たしたのが、浦上則宗ら有力家臣です。
浦上則宗は領国の支配を支えただけでなく、京都でも政則を補佐しました。こうした有力家臣の存在があったからこそ、再興したばかりの赤松氏は三か国を治めることができたのです。
しかし、これは別の問題も生みました。家臣たちの力が強くなれば、当主である政則の命令に必ず従うとは限りません。政則が戦いで失敗すれば、「このまま政則を当主として支えていいのか」と家臣たちが考える可能性もあります。そして実際に、赤松氏を揺るがす大事件が起こりました。再び山名氏との戦いが激しくなったのです。
真弓峠の敗戦から巻き返し、晩年へ
1483年の敗戦と当主交代の動きを乗り越える
1483年、政則は播磨と但馬の境にある真弓峠で、山名政豊と戦いました。しかし、この戦いで赤松軍は敗北します。山名軍はそのまま播磨へ進み、政則は退却しました。赤松氏にとって、これは非常に大きな危機でした。せっかく応仁の乱で山名氏から取り戻した播磨を、再び失う可能性が出てきたからです。
さらに、敗戦した政則に対して赤松家の内部からも不満が噴き出します。浦上則宗ら有力家臣が、政則を当主から外し、代わりに有馬慶寿丸を立てようとしたのです。かつて政則を支え、赤松氏の再興に力を貸した家臣たちが、今度は政則を見限ろうとしました。それだけ真弓峠での敗北は、政則の立場を大きく揺るがしたのです。
しかし、すべての家臣が政則に背いたわけではありません。別所則治らは政則を支持し、政則も彼らの支援を受けて反撃に乗り出します。そして1488年、播磨坂本で山名政豊を破り、山名軍を但馬へ退却させました。一度は当主の座まで危うくなった政則でしたが、自らを支持する家臣とともに巻き返し、播磨での支配を立て直したのです。
1496年の死と幼い義村への継承
山名氏との戦いを乗り越えた政則は、赤松氏を次の世代へ引き継ぐ準備も進めました。政則には家督を継がせる男子がいなかったため、一族から義村を養子として迎えます。また、政則の妻・洞松院は、室町幕府の有力者である細川政元の姉でした。赤松氏は播磨・備前・美作の家臣たちだけでなく、京都の有力者とも関係を築くことで、守護家としての立場を支えていたのです。
1496年、政則は亡くなりました。後を継いだ義村はまだ幼く、政則の妻である洞松院が後見人として赤松氏を支えることになります。こうして政則が復活させた赤松氏は、次の世代へ引き継がれました。
しかし、政則の時代に力を強めた浦上氏などの有力家臣も残っています。幼い義村にとって、こうした家臣たちをまとめながら領国を治めていくことが新たな課題となっていきます。


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