【日本史】北条早雲(伊勢宗瑞)とは?幕府の武士から伊豆・相模の大名へ

室町時代

北条早雲は、伊勢盛時・伊勢宗瑞の名で活動し、伊豆と相模に領国を築いた武将です。今川氏の家督争いに関わった後、韮山を拠点に勢力を広げ、小田原北条氏の出発点を作りました。

一介の浪人が突然大名になった、とだけ見ると、その歩みは分かりません。幕府に仕える伊勢氏の出身と今川氏との親族関係を押さえ、駿河から伊豆、小田原、三浦へ進んだ経緯と、1519年の死去までをたどります。

ひと目でわかる北条早雲

早雲は、室町幕府に仕える伊勢氏から出て、甥の今川氏親の継承を支えた武将です。伊豆への進出後、相模へ勢力を広げ、三浦氏を滅ぼしました。晩年に子・氏綱への継承を進め、1519年に韮山で亡くなります。

  • 備中に所領を持つ伊勢盛定の子として生まれる。
  • 将軍・足利義尚の申次衆として京都で活動する。
  • 1487年、北川殿の子・今川氏親の家督継承を支える。
  • 1493年に伊豆へ侵攻し、足利茶々丸と争う。
  • 韮山を拠点に伊豆を平定し、大森氏に代わって小田原を押さえる。
  • 1506年に相模西部で検地を実施し、土地と負担を把握する。
  • 1516年、新井城の三浦氏を滅ぼし、相模の支配を進める。
  • 氏綱への継承を進め、1519年に韮山で没する。

北条早雲の出自と今川氏との関係

浪人ではなく幕府に仕える家の出身

北条早雲は、かつて素性の分からない浪人から戦国大名へと成り上がった人物として知られていました。しかし、近年の研究によって、室町幕府に仕える伊勢氏の出身であり、京都で幕府の仕事に携わっていたことが明らかになっています。

早雲の父は、備中国荏原荘(現在の岡山県井原市)に所領を持つ伊勢盛定です。盛定は8代将軍・足利義政に仕える申次衆で、将軍への用件を取り次ぐ役割を担っていました。また、母は幕府の政所執事を務めた伊勢貞国の娘であり、早雲は父母の双方を通じて幕府と深い関係を持つ家に生まれました。

1471年には父の所領と関係の深い備中の法泉寺に禁制を出しており、若いころから一族の所領や寺院に関わっていたことが分かります。その後は京都で幕府に仕え、1483年には9代将軍・足利義尚の申次衆として活動していました。

なお、早雲が当時名乗っていたのは伊勢盛時という名前でした。後に出家して宗瑞と称し、北条姓を名乗るようになったのは息子・氏綱の代です。「北条早雲」という名前は後世に広まった呼び方であり、東国へ進出した当時の盛時は、あくまで伊勢氏の武士でした。

甥の今川氏親を支えて駿河に足場を得る

北条早雲が東国で活動するきっかけとなったのが、駿河国(現在の静岡県中部)を治める今川氏の家督争いでした。北条早雲の姉妹・北川殿は、駿河守護の今川義忠に嫁いでいました。しかし1476年、義忠が遠江国での戦いで討ち死にすると、今川家では後継者をめぐる争いが起こります。

義忠には北川殿との間に生まれた龍王丸という息子がいましたが、まだ幼く、家臣たちをまとめて領国を治めることはできませんでした。そのため、今川一族の小鹿範満を支持する勢力が現れ、家中は対立するようになります。この争いに関わったのが、龍王丸の叔父にあたる北条早雲でした。

今川氏は室町幕府とも関係の深い有力な守護大名でした。そのため、家督争いが長引けば駿河の支配が不安定になるだけでなく、幕府や周辺の大名にも影響が及びます。幕府に仕え、今川氏とも親族関係を持つ北条早雲は、両者の間に立って争いの収拾に関わったと考えられています。

当初は龍王丸が成長するまで小鹿範満が家督を代行する形で争いが収められました。しかし、龍王丸が成長しても範満が実権を握り続けたため、対立は再び表面化します。1487年、北条早雲は龍王丸を支援して小鹿範満を攻め、これを滅ぼしました。こうして龍王丸は今川家の当主となり、後に今川氏親と名乗ります。

この一連の出来事によって、北条早雲は今川氏親から強い信頼を得ました。その後は駿河で氏親を支え、興国寺城(現在の静岡県沼津市)周辺を活動の拠点とするようになります。

伊豆への進出と領国支配の始まり

堀越公方・足利茶々丸との戦い

1493年、北条早雲は駿河から伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)へ進軍しました。当時の伊豆には、堀越公方と呼ばれる足利氏の勢力がありました。堀越公方は、室町幕府が関東の政治的混乱を収めるために派遣した足利政知を始祖とし、伊豆の堀越を拠点としていました。

しかし1491年、政知が亡くなると、息子の足利茶々丸が異母弟や継母を殺害して権力を握ります。この出来事によって堀越公方の内部は混乱し、周辺勢力との関係も不安定になりました。こうした状況のなか、北条早雲は伊豆への進出を開始します。

北条早雲は堀越公方の拠点を攻め、伊豆の韮山を自らの拠点としました。ただし、茶々丸の勢力が一度の戦いで完全に滅びたわけではありません。抵抗はその後も続き、北条早雲は1498年ごろまで伊豆の支配をめぐる戦いを続けました。

この戦いによって、北条早雲は今川氏を支える立場から、自ら領地を持つ武将へと変わっていきます。

伊豆を平定し小田原へ進出する

小田原城

伊豆に勢力を築いた北条早雲は、さらに東の相模国(現在の神奈川県)へ進出しました。その重要な拠点となったのが小田原城です。当時、小田原周辺には大森氏が勢力を持っていました。しかし、北条早雲は大森氏を退けて小田原城を手に入れ、相模西部へ支配を広げていきます。

小田原城の攻略については、牛の角に松明を付けて敵を驚かせたという逸話が知られています。ただし、これは後世の軍記物などに伝わる話であり、実際に行われたことを確認できるものではありません。また、小田原を手に入れた正確な年についても諸説があります。

小田原を重視したのは、相模へ勢力を広げるための拠点として重要だったからです。伊豆の韮山を拠点とするだけでは、相模の奥深くまで軍勢を進め、継続して支配することは容易ではありません。小田原を押さえたことで、北条早雲は伊豆と相模西部を結びつけながら、東へ進出できるようになりました。

しかし、小田原を手に入れたからといって、相模全体を支配できたわけではありません。相模には上杉氏の影響力が残り、東部では三浦氏が勢力を維持していました。北条早雲はこうした勢力と争いながら、少しずつ領地を広げていくことになります。

相模の平定と戦国大名への成長

検地による領国支配の整備

伊豆と相模西部に勢力を築いた北条早雲は、戦いによって領地を広げるだけでなく、その土地を安定して治めるための取り組みも進めました。その一つが検地です。1506年、北条早雲は相模西部で検地を実施したとされています。検地とは、田畑の面積や土地の状況などを調べ、年貢や負担を把握するための調査です。

戦いに勝って土地を手に入れても、そこから安定した収入を得られなければ、家臣への恩賞や軍勢の維持は難しくなります。また、土地の支配関係が曖昧なままでは、年貢をめぐる争いが起こることもありました。

そこで北条早雲は、土地の状況を調べ、領内の負担を把握しようとしたのです。

後北条氏は、後に領国支配の仕組みを整え、関東で大きな勢力を築いていきます。その基盤となる取り組みは、北条早雲の代から進められていました。

三浦氏を滅ぼし相模を掌握する

北条早雲が相模の支配を広げるうえで、大きな障害となったのが三浦氏でした。三浦氏は鎌倉時代以来、相模に深い基盤を持つ武士の一族です。戦国時代には三浦義同(道寸)が一族を率い、相模東部で勢力を維持していました。

北条早雲は相模の支配をめぐって上杉氏などとも争っていましたが、三浦氏はそのなかでも重要な敵対勢力でした。相模全体へ支配を広げるためには、三浦氏の勢力を退ける必要があったのです。北条早雲は三浦氏との戦いを重ね、次第にその拠点を追い詰めていきました。

そして1516年、北条早雲の軍勢は三浦氏の拠点である新井城(現在の神奈川県三浦市)を攻め落とします。この戦いで三浦義同と息子の義意が討たれ、三浦氏は滅亡しました。三浦氏の滅亡によって、北条早雲は相模の広い範囲に支配を及ぼすようになります。

かつて駿河で今川氏を支える立場だった北条早雲は、伊豆を攻略し、小田原を拠点として相模へ進出しました。そして三浦氏を滅ぼしたことで、伊豆と相模を中心とする領国を築き上げたのです。

北条早雲の晩年と後北条氏への継承

息子・氏綱への家督継承

相模での勢力を広げた北条早雲は、晩年になると息子の伊勢氏綱(北条氏綱)へ家督と領国支配を引き継いでいきました。

北条早雲が築いた領国は、伊豆と相模にまたがる広いものでした。そのため、領地を維持するには、城や家臣をまとめるだけでなく、年貢の徴収や領民への命令を継続して行う必要がありました。こうした領国支配を次の世代へ引き継ぐことは、北条早雲にとって重要な課題だったのです。

1518年には、氏綱が虎の印判を用いた文書を発給しており、このころには氏綱が領国支配の中心的な役割を担うようになっていたことが分かります。虎の印判は、後北条氏が領内に命令を伝える際に用いた印章です。こうした文書を通じて、領内の武士や寺社、住民などに命令が伝えられました。

氏綱が印判を用いて命令を出していたことは、北条早雲が築いた領国の支配が、次の世代へ引き継がれつつあったことを示しています。

1519年の死と後北条氏の発展

1519年、北条早雲は伊豆の韮山で亡くなりました。

北条早雲は京都で室町幕府に仕える武士として活動した後、今川氏の家督争いをきっかけに駿河へ進出しました。そして伊豆の足利茶々丸を攻め、相模の小田原を押さえ、三浦氏を滅ぼすことで領国を広げていきました。

北条早雲の死後、その勢力を受け継いだのが息子の氏綱です。氏綱は父が築いた伊豆・相模の領国を基盤として、さらに武蔵方面へ進出しました。また、後に北条姓を名乗るようになり、関東で大きな勢力を築いた後北条氏の基盤を固めていきます。

この北条姓は、鎌倉時代に執権として幕府を支えた北条氏の名を受け継ぐものでした。ただし、北条早雲の家系が鎌倉幕府の執権北条氏の直系だったわけではありません。北条姓を名乗ることで、氏綱は関東の武士たちに対して、自らの支配を正当化しようとしたと考えられています。

また、北条早雲の遺言によって創建されたと伝えられる箱根の早雲寺は、後北条氏の菩提寺として大切にされました。

北条早雲の死後も、後北条氏は氏綱、氏康、氏政、氏直へと続き、戦国時代の関東で大きな勢力を築いていきます。

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