釈迦如来(しゃかにょらい)は、仏教を開いたお釈迦さまを、悟りを開いた仏として表した呼び名です。お寺で手を合わせる像は、苦しみから離れる道を探し、その教えを人々に伝えた存在を示しています。
阿弥陀如来や薬師如来と何が違うのか、御利益をどのように考えればよいのかも気になるところでしょう。この記事では釈迦如来の意味、教えと姿の特徴、法隆寺や清凉寺で受け継がれる信仰を紹介します。信仰が生まれた背景、中国から日本への伝来、各地へ広まった過程もたどります。
ひと目でわかる釈迦如来
釈迦如来は、仏教の出発点となったお釈迦さまを仏として仰ぐ呼び名で、教えを実践することが信仰の中心になります。
- お釈迦さまはインドで生き、人が苦しみから離れる道を説いた。
- 釈迦牟尼仏とも呼ばれ、釈迦如来は悟りを開いた仏としての呼び名。
- 厳しい苦行だけでは答えに至らず、極端に偏らない中道を大切にした。
- 悟りの後は教えを弟子たちに伝え、その教えが仏教の広がりにつながった。
- 像には座像や立像のほか、誕生や涅槃を表す姿がある。
- 御利益を考えるときは、智慧と慈悲を日々の行動に生かす教えが大切。
釈迦の誕生と教えの日本への伝来

ルンビニでの誕生と王子としての暮らし
釈迦は、仏教を開いた人物です。「お釈迦さま」とも呼ばれ、悟りを開いた仏として、現在も世界各地で信仰されています。
釈迦は紀元前5世紀ごろを中心とする時代に、現在のネパール南部にあるルンビニで生まれたと伝えられています。本名はゴータマ・シッダールタと伝えられ、北インドのシャカ族の有力者の家に生まれました。父はスッドーダナ、母はマーヤーとされ、仏教の伝承では王子として何不自由ない生活を送っていたと語られています。
しかし、釈迦は恵まれた暮らしのなかでも、人が老い、病気になり、やがて死を迎えることに疑問を抱くようになりました。仏教の伝承には、釈迦が城の外へ出た際、老人、病人、死者、修行者に出会ったという「四門出遊」の物語があります。
これは、人間が避けられない苦しみを知り、その苦しみから離れる道を探そうとした釈迦の決意を表す物語です。やがて釈迦は家族や恵まれた暮らしを離れ、修行の道へ進むことになります。
出家と苦行を経て悟りを開く
釈迦は29歳ごろに出家したと伝えられています。出家後は修行者たちのもとで瞑想を学び、さらに厳しい苦行にも取り組みました。当時のインドには、身体を苦しめることで欲望を抑え、精神的な境地に到達しようとする修行がありました。釈迦も食事を極端に減らすなど、長い間苦行を続けたとされています。
しかし、身体を弱らせるだけでは、苦しみから離れる答えを得られませんでした。そこで釈迦は苦行をやめ、食事を取って体力を回復させます。そして現在のインドにあるブッダガヤで、菩提樹の下に座り、瞑想を続けました。
その結果、釈迦は悟りを開いたと伝えられています。このとき釈迦が見いだしたとされるのが、快楽に溺れることにも、身体を極端に苦しめることにも偏らない「中道」という考え方です。釈迦は、人が苦しむ原因を理解し、その原因を取り除くことで苦しみから離れられると説きました。
こうして悟りを開いた釈迦は、自分が得た教えをほかの人々にも伝えるようになります。
釈迦が説いた教えと仏教の広がり
初めての説法と弟子たちへの教え
悟りを開いた釈迦は、現在のインドにあるサールナートで、かつて一緒に修行していた五人の修行者に教えを説いたと伝えられています。これが「初転法輪(しょてんぼうりん)」と呼ばれる、釈迦による最初の説法です。釈迦が説いた教えの中心には、人間の苦しみと、その苦しみから離れる方法がありました。代表的な教えが「四諦(したい)」です。
四諦では、人生には苦しみがあること、その苦しみには原因があること、原因を取り除けば苦しみから離れられること、そしてそのための実践方法があることを説いています。その実践方法として示されたのが「八正道(はっしょうどう)」です。
八正道は、物事を正しく理解すること、正しい言葉を使うこと、正しく行動することなど、八つの実践を通じて苦しみから離れる道を示しています。
釈迦はその後も北インド各地を巡り、身分や立場の異なる多くの人々に教えを説きました。また、釈迦のもとには多くの弟子が集まり、仏教の教団が形づくられていきます。釈迦は80歳で亡くなったと伝えられています。最期を迎えた場所は、現在のインドにあるクシナガラとされ、この出来事は「入滅」と呼ばれます。
釈迦の死後も弟子たちは教えを受け継ぎ、やがて経典としてまとめられていきました。
インドから中国・朝鮮半島を経て日本へ
釈迦の死後、仏教はインド各地へ広まり、さらに中央アジアや中国へ伝わっていきました。中国ではインドの仏教経典が漢文に翻訳され、多くの僧が仏教を学ぶようになります。その後、仏教は朝鮮半島の国々にも広まり、日本へと伝えられました。
日本に仏教が公式に伝えられたのは、6世紀半ばとされています。百済の王が日本の朝廷に仏像や経典などを贈ったことが、仏教の公伝として知られています。公伝の年については538年説と552年説があります。
しかし、仏教が伝わった当初、日本の朝廷が一斉に受け入れたわけではありませんでした。仏教を積極的に受け入れようとした蘇我氏に対し、物部氏や中臣氏などは、従来の神々への祭祀を重んじる立場から反対しました。仏教を受け入れるかどうかという問題は、朝廷内の有力豪族の対立とも結びついていきます。
587年、蘇我馬子は物部守屋を滅ぼし、朝廷では仏教を受け入れる動きが強まりました。その後、推古天皇の時代には、聖徳太子が仏教を重んじたと伝えられ、飛鳥寺や法隆寺などの寺院が整えられていきます。こうして仏教は、朝廷や有力豪族の信仰として日本に根づき、奈良時代には国家を守るための祈りとも深く結びつくようになりました。
釈迦如来とはどのような仏さま?
お釈迦さまと釈迦如来の関係
釈迦如来は、仏教を開いたお釈迦さまを、悟りを開いた仏として表した存在です。「釈迦」と「釈迦如来」は別々の人物ではありません。
釈迦は歴史上の人物を指す名前として使われ、釈迦如来は悟りを開いた仏として敬うときの呼び名です。また、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)とも呼ばれます。
「如来」とは、悟りを完成させた仏を表す言葉です。仏教には、阿弥陀如来や薬師如来、大日如来など、さまざまな如来が登場します。そのなかでも釈迦如来は、実在した人物である釈迦の生涯に基づく仏さまであることが特徴です。
ただし、現在のお寺で見られる釈迦如来像は、釈迦の実際の容貌をそのまま再現したものではありません。悟りを開いた仏としての姿を表すため、衣服や髪型、手の形などに意味が込められています。
苦しみから人々を救う仏さま
釈迦如来は、人々に苦しみから離れる道を示す仏さまです。
薬師如来が病気平癒、阿弥陀如来が極楽浄土への往生と結びつけて信仰されるのに対し、釈迦如来は仏教の教えそのものを説いた存在として信仰されています。
釈迦が説いたのは、苦しみの原因を理解し、考え方や行動を改めることで、その苦しみから離れる道です。例えば、人は自分の思いどおりにならないことに悩んだり、失うことを恐れたりします。釈迦は、物事が常に変化することや、自分の思いどおりにならない現実を理解することの大切さを説きました。
その教えは、仏教の「智慧(ちえ)」と「慈悲(じひ)」にもつながります。智慧とは、物事の本当のあり方を正しく理解することです。慈悲とは、ほかの人の苦しみに心を向け、その苦しみを和らげようとすることを意味します。
釈迦如来は、こうした教えを通じて、人々が迷いや苦しみから離れる道を示す仏さまとして信仰されてきました。
釈迦如来の姿と御利益

座像・誕生仏・涅槃像が表す場面
釈迦如来像には、座っている姿や立っている姿など、さまざまな形があります。代表的なのが、蓮華座などの上に座り、穏やかな表情を浮かべた釈迦如来坐像です。右手を胸の前に上げ、手のひらを前に向けた姿も見られます。これは「施無畏印(せむいいん)」と呼ばれる手の形で、人々の恐れや不安を取り除くことを意味しています。
また、釈迦の生涯の出来事を表した仏像もあります。その一つが「誕生仏(たんじょうぶつ)」です。誕生仏は、釈迦が生まれたときの姿を表した仏像で、右手を天に向け、左手を地面に向けた姿がよく知られています。これは、釈迦が誕生した際に「天上天下唯我独尊」と唱えたという仏教の伝承に基づいています。
日本では、釈迦の誕生を祝う花まつりで、誕生仏に甘茶を注ぐ行事が行われています。一方、釈迦が亡くなる場面を表したのが「涅槃像(ねはんぞう)」です。涅槃像は、釈迦が横になっている姿で表され、入滅の場面を伝えています。
このように、釈迦如来像には悟りを開いた仏としての姿だけでなく、誕生や最期など、生涯の出来事を表したものもあるのです。
智慧と慈悲を暮らしに生かす信仰
釈迦如来は、人々を迷いや苦しみから救う仏さまとして信仰されています。薬師如来の病気平癒のように、全国共通で特定の願い事だけを受け持つ仏さまではありませんが、釈迦如来への信仰では、次のような願いが大切にされています。
- 智慧を授かる
- 心の安寧
- 迷いや苦しみからの解放
- 悟りへの導き
釈迦如来への信仰で特に重んじられるのは、仏教の教えを理解し、日々の生活に生かすことです。例えば、怒りや欲望に振り回されず、自分の行動を振り返ることや、他人の苦しみに心を向けることなどが挙げられます。釈迦が説いた四諦や八正道も、こうした日々の実践につながる教えです。
また、日本では宗派によって釈迦如来への信仰の形が異なります。例えば、曹洞宗では釈迦牟尼仏を御本尊とし、坐禅や日々の生活を通じて仏教の教えを実践することが大切にされています。
釈迦如来への祈りは、願い事をかなえてもらうだけでなく、自分自身の生き方を見つめ直す機会としても受け継がれてきたのです。
釈迦如来を祀るお寺
法隆寺|聖徳太子のために造られた釈迦三尊像
奈良県斑鳩町にある法隆寺は、飛鳥時代の仏教文化を伝える代表的な寺院です。金堂には、中央の釈迦如来と、その左右に菩薩を配した「釈迦三尊像」が安置されています。この釈迦三尊像は623年、仏師の鞍作止利(くらつくりのとり)によって造られました。
像の光背に刻まれた銘文によると、聖徳太子とその家族の病気平癒を願って造像が始められましたが、太子らが相次いで亡くなったため、その供養と成仏を願って完成させたとされています。つまり、法隆寺の釈迦三尊像には、聖徳太子を敬い、その死後の安らぎを願う人々の思いが込められているのです。
釈迦三尊像は、正面から見たときの左右対称の姿や、衣の流れるような表現など、飛鳥時代の仏像の特徴を伝えています。また、法隆寺の金堂には薬師如来像や阿弥陀三尊像なども安置されています。
同じ金堂に異なる如来が祀られていることからも、日本でさまざまな仏への信仰が受け入れられてきたことが分かります。
清凉寺|中国から伝わった釈迦如来像
京都市右京区にある清凉寺は、「嵯峨釈迦堂」の名で親しまれている寺院です。御本尊は国宝の釈迦如来立像で、中国から日本へ伝えられた仏像として知られています。この仏像を日本へ持ち帰ったのが、平安時代の僧・奝然(ちょうねん)です。
奝然は983年に宋へ渡り、中国の仏教や寺院を学びました。その際、釈迦の生前の姿を写したと伝えられる仏像を知り、その姿を模した釈迦如来像を造らせました。奝然は986年に帰国し、この仏像を日本へ持ち帰ります。
この像は、一般的な日本の釈迦如来像とは異なる、細かなひだを重ねた衣や独特の髪の表現が特徴です。また、清凉寺の釈迦如来像は「生身の釈迦」として信仰されてきました。
法隆寺の釈迦三尊像が飛鳥時代の日本で造られたのに対し、清凉寺の釈迦如来像は平安時代に中国からもたらされました。この二つの仏像を比べると、日本に仏教が伝わった後も、中国との交流を通じて新しい仏像や信仰が取り入れられてきたことが分かります。


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