【日本史】山名政豊とは?応仁の乱の講和と赤松氏との領国争いを解説

但馬で地図を広げる山名政豊 室町時代

山名政豊(やまなまさとよ)は、室町時代後期に山名家を率いた武将です。山名宗全の死後に細川政元と講和し、京都の戦いを収めようとしました。その一方で、播磨・備前・美作をめぐって赤松氏と争い、領国では家臣や息子との対立にも直面します。

応仁の乱は、京都で戦闘が終わればすべて解決する争いではありませんでした。この記事では、政豊が引き継いだ山名家の立場、赤松氏との戦い、但馬への撤退から家督の継承と最期までを、出来事のつながりに沿って解説します。

ひと目でわかる山名政豊

山名政豊は、但馬・備後を基盤に山名家を率いた守護大名です。宗全の死後に西軍の講和を進めましたが、京都を離れてからも赤松氏との領国争いが続きました。遠征の失敗後は但馬の家中を立て直し、致豊への継承を経て1499年に亡くなります。

  • 山名宗全の後継として、但馬・備後を基盤とする山名家を担う
  • 1473年の宗全の死後、西軍側の講和交渉を進める
  • 1474年に細川政元と和睦し、両家の対立を収める
  • 畠山義就らの戦闘が続き、京都全体の停戦には至らない
  • 1480年に美作へ出兵し、赤松氏との領国争いを進める
  • 1483年に備前・播磨へ侵攻し、現地の武士と連携する
  • 1488年に但馬へ撤退し、家臣による俊豊擁立に直面する
  • 1493年に俊豊との戦いに勝ち、致豊へ家督を継がせる
  • 1499年に没し、但馬を中心とする山名家の支配を次代へ残す

山名家の継承と応仁の乱の講和

1473年、祖父・山名宗全の跡を継ぐ

山名政豊は、応仁の乱で西軍の中心となった山名宗全の孫にあたる人物です。父の山名教豊は宗全の後継者とされていましたが、応仁元年(1467年)に亡くなったため、政豊が祖父の後継者となりました。

当時の山名家は、但馬や備後などに勢力を持つ有力な守護大名でした。しかし、応仁の乱では細川勝元を中心とする東軍と激しく対立しており、山名家が支配する各国でも戦いが続いていました。

文明5年(1473年)3月、宗全が亡くなると、政豊は山名家の惣領として西軍の中心的な立場を引き継ぎます。さらに同年5月には東軍を率いていた細川勝元も亡くなり、両軍では次の世代によって戦争を収めようとする動きが進み始めました。

政豊にとって、長引く京都での戦いは大きな負担でした。山名家は複数の国に守護職を持っていましたが、京都で戦い続けている間にも、各地では敵対する勢力が領国を奪おうとしていたためです。特に播磨・備前・美作では、赤松政則が旧領の回復を進めていました。政豊は山名家の勢力を維持するためにも、京都での戦いを終わらせる必要がありました。

1474年、細川政元と和睦する

文明6年(1474年)4月、政豊は細川勝元の跡を継いだ細川政元と和睦しました。宗全と勝元の代から続いていた山名家と細川家の対立は、両家の後継者が歩み寄ることで、ようやく一つの区切りを迎えます。

この和睦には、宗全の娘であり、勝元の妻だった女性も関わっていました。山名家と細川家はもともと婚姻によって結ばれた関係にあり、両家の親族関係も講和を進めるうえで役立ったのです。

しかし、政豊と政元が和睦しても、応仁の乱に参加していたすべての武将が戦いをやめたわけではありません。畠山義就は畠山政長との家督争いを続けており、大内政弘らも京都に残っていました。政豊が和睦を成立させた後も戦いは続き、応仁の乱が終息するのは文明9年(1477年)のことでした。

一方、政豊自身も細川家との争いを収めただけでは、山名家が抱える問題を解決できませんでした。応仁の乱の間に赤松政則が播磨・備前・美作の支配を回復しており、政豊はこれらの旧領を取り戻すため、新たな戦いに向かうことになります。

赤松政則との戦いと播磨への進出

赤松氏に奪われた播磨・備前・美作の奪還を目指す

山名家が赤松氏と対立するようになったのは、政豊が当主となる以前のことでした。

嘉吉元年(1441年)、赤松満祐が将軍・足利義教を殺害する嘉吉の乱を起こすと、山名宗全は幕府の追討軍に加わり、満祐を討伐しました。その功績によって山名一族は、赤松氏が守護を務めていた播磨・備前・美作を獲得します。

ところが、長禄2年(1458年)に赤松氏が再興すると、両家は再び領国をめぐって対立するようになりました。応仁の乱では赤松政則が細川勝元の東軍に加わり、山名氏の支配する三国へ軍勢を進めます。

赤松氏は現地の旧臣たちの協力も得ながら、播磨・備前・美作を取り戻していきました。宗全の死後に山名家を継いだ政豊にとって、祖父が獲得した三国を失ったことは大きな痛手でした。

政豊は応仁の乱が終息した後も赤松氏の支配を認めず、文明12年(1480年)には美作へ出兵します。さらに文明15年(1483年)には大軍を率いて播磨へ侵攻し、本格的な領国奪還に乗り出しました。

1483年、真弓峠で赤松政則を破る

文明15年(1483年)、政豊は但馬から播磨へ軍勢を進め、赤松政則との戦いを開始しました。このとき備前では、山名方に通じた松田氏が備中の庄氏らと結び、赤松氏の重臣・浦上氏が守る福岡城を攻撃していました。

福岡城は現在の岡山県瀬戸内市周辺にあった城で、備前を支配する赤松氏にとって重要な拠点でした。浦上則宗は主君の赤松政則に援軍を求めましたが、政則は山名軍の本拠である但馬方面へ攻め込むことを選びます。

同年12月、政則の軍勢は但馬と播磨の国境にある真弓峠へ進みました。これに対して政豊は、家臣の垣屋氏らを率いて赤松軍を迎え撃ち、12月25日の戦いで勝利を収めます。

赤松軍は多くの兵を失って敗走し、政則自身も播磨へ引き返さなければならなくなりました。この敗北は赤松家の内部にも大きな混乱をもたらし、援軍を得られなくなった福岡城も翌文明16年(1484年)には山名方の手に落ちます。

真弓峠での勝利によって、政豊は赤松氏に対する攻勢を強めました。山名軍は播磨各地へ進出し、備前や美作でも味方する武士たちが勢力を広げたことで、政豊は一時、失っていた三国の大部分を取り戻すほどの優位に立ちました。

赤松政則の反撃によって播磨の支配が揺らぐ

真弓峠で敗れた赤松政則でしたが、その後は重臣の浦上則宗らとの関係を立て直し、山名軍への反撃を進めました。一時、赤松家では政則を当主の座から退けようとする動きまで起こっていましたが、政則は幕府から再び家督と守護職を認められ、家臣たちと協力して領国の回復を目指します。

文明17年(1485年)になると、備前では福岡城やその周辺をめぐって激しい戦いが起こりました。山名方と赤松方の双方に戦死者が出るなか、赤松政則と浦上則宗が協力して軍勢を動かすようになると、次第に赤松方が優勢となっていきます。

播磨でも光明寺や英賀などをめぐる戦いが続き、政豊は獲得した拠点を守るために各地へ軍勢を送らなければならなくなりました。真弓峠で赤松軍を破った政豊でしたが、赤松氏の反撃によって、当初の勢いを維持することは難しくなっていきます。

さらに問題となったのが、本拠地である但馬の情勢でした。播磨への遠征が長引くなか、但馬では政豊に不満を持つ家臣たちの動きが強まり、領国の内部でも対立が生じるようになっていました。

1488年、播磨から但馬へ撤退する

長享2年(1488年)、赤松軍は播磨における山名方の拠点だった坂本城への攻撃を強めました。坂本城は現在の兵庫県姫路市にあった城で、政豊が播磨での軍事活動を進めるための重要な拠点でした。

政豊は坂本城を守りながら赤松氏への抵抗を続けましたが、戦況は次第に不利となります。さらに但馬の国人たちが反乱を起こすおそれも高まったため、政豊は遠征を続けることを断念し、同年7月に但馬へ軍勢を引き揚げました。

この撤退によって赤松政則は播磨の支配を回復し、備前・美作でも勢力を立て直していきます。一時は三国の大部分を奪還した政豊でしたが、その支配を維持することはできず、長年にわたる遠征は失敗に終わりました。

しかも、但馬へ戻った政豊を待っていたのは、家臣たちによる新たな反抗でした。

但馬での家督争いと山名政豊の最期

家臣たちが息子・俊豊を支持して政豊に反抗する

播磨から但馬へ戻った政豊は、領国内で自らの立場が大きく揺らいでいることを知ります。長く続いた遠征の失敗によって政豊への不満が高まり、垣屋氏や太田垣氏などの有力家臣たちの間で、息子の山名俊豊を新たな当主に立てようとする動きが起こっていたのです。

これらの家臣は、但馬や備後でそれぞれ土地と軍事力を持つ有力な武士でした。政豊の遠征を支えてきた一方、戦いが長期化して多くの負担を強いられたことで、政豊に代わる当主を求めるようになったと考えられています。

長享2年(1488年)には政豊を支持する勢力と俊豊を支持する勢力が分かれ、政豊は九日市城を拠点とし、俊豊は此隅山城に入りました。

父と息子がそれぞれ家臣を集めて対立する事態となり、政豊は赤松氏から領国を取り戻すどころか、山名家の当主としての地位まで脅かされることになったのです。

1493年、俊豊との戦いに勝利する

政豊と俊豊の対立は、その後も解消されませんでした。政豊は延徳2年(1490年)に再び美作への軍事行動を進めましたが、但馬では家臣たちの支持をめぐる争いが続いていました。明応2年(1493年)になると、俊豊は政豊が拠点とする九日市城を攻撃し、父子の対立は本格的な武力衝突へと発展します。

当初は俊豊側が優勢でしたが、政豊は九日市城を守り抜き、反撃に転じました。同年7月の戦いでは俊豊方の塩冶氏や村上氏らを破り、次第に優位に立つようになります。

さらに、この頃の幕府では細川政元による明応の政変が起こり、俊豊が従っていた将軍・足利義材も失脚しました。俊豊は幕府での後ろ盾を失い、但馬へ戻ってからも十分な支持を集められなくなっていきます。

こうして政豊は俊豊との戦いを有利に進め、最終的に俊豊を備後へ退かせることに成功しました。播磨遠征の失敗によって失いかけた家督を、政豊は家臣たちとの戦いを通じて守り抜いたのです。

俊豊を廃し、致豊へ家督を譲る

俊豊を退けた政豊は、但馬での支配を立て直そうとしました。しかし、家臣たちの対立はすぐには収まらず、明応3年(1494年)には垣屋氏の本拠地である西気谷へ軍勢を進めるなど、反抗する勢力への対応を続けています。

明応4年(1495年)、政豊は九日市城から山名氏の本拠である此隅山城へ移りました。さらに翌明応5年(1496年)には俊豊を後継者から外し、別の息子である山名致豊へ家督を譲ります。

この家督継承によって、政豊と俊豊の対立は一応の決着を迎えました。しかし、一連の争いを通じて、山名家の内部では垣屋氏や太田垣氏などの家臣たちが大きな影響力を持つようになっていました。

政豊は息子との戦いに勝利したものの、以前のように有力家臣を従わせることは難しくなっていたのです。

1499年、山名政豊が亡くなる

明応8年(1499年)、政豊は59歳で亡くなりました。

政豊は祖父・宗全の死後に山名家の惣領となり、細川政元との和睦によって応仁の乱の終息に関わりました。その後は赤松政則から播磨・備前・美作を取り戻そうと大規模な遠征を行い、真弓峠では赤松軍を破るなど、一時は三国の大部分を回復しています。

しかし、赤松氏の反撃によって播磨から撤退し、但馬では息子の俊豊を支持する家臣たちが反抗しました。政豊は父子の争いを制して致豊に家督を譲りましたが、その過程で山名家の家臣たちは力を強め、守護の支配も揺らぐようになります。

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