【日本史】武田信廉とは?信玄・勝頼を支えた一門と肖像画に残る功績

安土桃山時代

武田信廉は、武田信玄の弟で、信繁とともに一門の立場から武田氏を支えた武将です。信濃の城を守る役割を担う一方、父・信虎と母・大井夫人の肖像画を残した画家としても知られます。

信廉は信玄の死後も勝頼を補佐しましたが、1582年の織田氏の侵攻で甲斐へ退き、処刑されました。軍事と絵画を別々の肩書として並べるのでなく、家を支えた行動と、今に残る作品を時代の流れに沿って見ていきます。

ひと目でわかる武田信廉

武田信廉は、信虎の子として生まれ、兄の信玄を支えながら母・大井夫人の肖像画を描きました。川中島を経て一門の重鎮となり、信玄の死後は勝頼を補佐します。父の肖像も残しましたが、1582年の武田氏滅亡に伴って命を落としました。

  • 信虎と大井夫人の子として生まれ、一門の武将として兄・信玄の軍事を支える。
  • 1553年、母・大井夫人の肖像画を残す。
  • 1561年の川中島の戦いに参加する。
  • 兄信繁の戦死後も、一族の重鎮として活動を続ける。
  • 1573年の信玄の死後、勝頼を補佐する。
  • 1574年、父・信虎の肖像画を描き家の記憶を残す。
  • 1575年の長篠に参陣し、信濃の城の守備も担う。
  • 1582年に伊那から甲斐へ退き、捕らえられて処刑される。

信玄の弟として軍事と絵画に関わる

一門の立場と1553年の母の肖像

信廉は、武田信虎と大井夫人の子として生まれました。武田信玄や武田信繁の弟にあたります。生年には複数の説がありますが、父・信虎が甲斐をまとめ、兄・信玄がその勢力を信濃へ広げていく時代を生きた人物です。

武田氏の一門には、当主と血縁が近いというだけでなく、軍勢を率ったり、重要な城を守ったりして領国を支える役割がありました。信廉も兄を支える武将として各地で活動していきます。

一方、信廉には武将とは異なる一面がありました。絵画に優れ、現在まで武田家の人物を描いた作品が伝わっています。その代表的な作品が、天文22年(1553年)の「大井夫人像」です。信廉が母を描いた肖像で、現在は長禅寺に伝わっています。

肖像には大井夫人の姿だけでなく、僧による「賛」も添えられています。賛とは、絵画に書き加えられた文章や詩などのことです。こうした肖像は、寺院で故人を供養し、その人物を家の記憶として残す役割も持っていました。

信廉が母の姿を描いたころ、兄の信玄は信濃への進出を続けていました。信廉は家族の記憶を絵として残す一方、自らも武田一門の武将として戦争に関わっていくことになります。

川中島で兄・信繁を失う

永禄4年(1561年)、信廉は川中島の戦いに参加しました。

このころ武田氏は信濃の大部分へ勢力を広げ、さらに北信濃をめぐって上杉謙信と対立していました。武田氏に追われた村上義清らが上杉氏を頼ったことで、信玄による信濃攻略は越後の上杉軍との戦いへ発展していたのです。

なかでも永禄4年の戦いでは、武田・上杉双方が大きな損害を受けました。そして武田方で戦死した有力武将の一人が、信廉の兄・武田信繁です。信繁は信玄を軍事面から支えてきた一門の中心人物でした。

信玄にとって実弟を失っただけでなく、軍勢を率いて当主を支える有力な一門を失ったことになります。信廉はこの戦いを生き残り、その後も武田氏の一門として活動を続け、信繁らが担ってきた役割の一部を次の時代へつないでいくことになります。

勝頼への補佐と武田氏滅亡

父・信虎の肖像を残し勝頼を支える

武田信玄が亡くなると、武田勝頼が武田氏を率いるようになりました。信廉は出家して逍遙軒信綱と称し、信玄の時代を知る一門の有力者として勝頼のもとでも活動を続けます。出家したからといって、武将としての活動を完全にやめたわけではありません。当時は僧としての名前を持ちながら、政治や軍事に関わり続ける武士もいました。

そして天正2年(1574年)、父・武田信虎が亡くなります。信廉が描いた「武田信虎像」も、この年の作品として伝わっています。現在、大泉寺に残るこの肖像は、父・信虎の姿を現在へ伝える貴重な作品です。

その一方で、信廉は武将としての活動も続けています。天正3年(1575年)の長篠の戦いにも参陣しました。この戦いで武田氏は山県昌景や馬場信春、内藤昌豊ら多くの有力武将を失いましたが、信廉は生き残りました。

1582年の織田軍侵攻で信濃から退く

天正10年(1582年)、武田氏を取り巻く状況は急速に悪化しました。木曾義昌らが武田氏から離反すると、織田信長は信濃方面から本格的な武田領侵攻を開始します。徳川家康も駿河方面から動き、勝頼は複数の方向から攻撃を受けることになりました。

信廉も信濃にいましたが、織田軍の侵攻を食い止めることができず、甲斐方面へ退きます。

信玄の時代には、信廉のような一門を各地へ配置することで広い領国を支えていました。しかし、織田・徳川軍の侵攻と家臣の離反が同時に進むと、一つの城や地域を守るだけでは武田氏全体の崩壊を止められなくなりました。

勝頼も新府城を離れ、武田氏は急速に追い詰められていきます。

勝頼の死後に捕らえられ古府中で最期を迎える

新府城を離れた勝頼は岩殿城を目指しましたが、小山田信茂の離反によって進路を失いました。そして天正10年(1582年)3月11日、田野で夫人や子の信勝らとともに最期を迎えます。これによって戦国大名としての武田氏は滅亡しました。

信廉も武田氏の崩壊から逃れることはできませんでした。甲斐へ退いた後に捕らえられ、古府中で処刑されます。信虎の時代から続いた武田氏が滅亡するなかで、信玄の弟として長く家を支えてきた信廉の生涯も終わりました。

しかし、武田氏の領国や組織が失われた後も、信廉が残した母・大井夫人や父・信虎を描いた肖像は寺院に守られ、現在まで伝えられています。

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