【日本史】異国船打払令

江戸時代

江戸時代後期、日本は長く続けてきた鎖国体制の中で、急速に接近してくる欧米列強への対応を迫られていました。そうした中で幕府が打ち出した強硬政策が「異国船打払令」です。本記事では、そんな異国船打払令について詳しく解説します!

異国船打払令とは

異国船打払令とは、1825年(文政8年)に江戸幕府が発した外国船排除のための法令であり、日本沿岸に近づく外国船を無条件で砲撃し追い払うことを命じたものです。従来の対応とは異なり、相手の目的や状況を問わず「見つけ次第撃退する」という極めて強硬な方針が採られました。この法令は「無二念打払令」とも呼ばれ、その名の通り例外をほとんど認めない徹底した排外政策でした。

ただし、すべての外国船が対象だったわけではなく、清や朝鮮、琉球といった従来から関係のあった国の船は除外されていました。また、オランダ船についても長崎以外での来航は禁止されていたものの、完全な敵対対象とはされていませんでした。このように一定の外交関係は維持しつつも、欧米列強に対しては厳しい姿勢を示した点に、この法令の特徴があります。

この政策は、鎖国体制を守る最後の強硬手段ともいえるものであり、幕府の危機感の表れでもありました。しかし同時に、後に重大な問題を引き起こすことにもつながっていきます。

異国船打払令が出された背景

鎖国体制と外国船来航の増加

江戸幕府は17世紀以降、キリスト教の拡大や社会秩序の混乱を防ぐために鎖国政策を採っていました。しかし19世紀に入ると、アメリカやイギリス、ロシアなどの船が日本近海に頻繁に現れるようになります。彼らは通商を求めて接触してきましたが、日本側にとっては未知の脅威でもありました。

当初、幕府は武力衝突を避けるため、1806年に「文化の薪水給与令」を出し、外国船に食料や燃料を与えて穏便に退去させる方針を取りました。しかし、この柔軟な対応は長く続きませんでした。外国船の行動は次第に強引になり、日本側の不安は高まっていきます。

こうした状況の中で、幕府は次第に防衛重視の姿勢へと転換し、より強硬な対応を模索するようになります。異国船打払令は、こうした国際情勢の変化と日本の危機意識の高まりの中で生まれた政策でした。

フェートン号事件など相次ぐ衝突

異国船打払令が制定される背景には、外国船との具体的な衝突事件の積み重ねがありました。1808年のフェートン号事件では、イギリス軍艦が長崎港に侵入し、食料や物資を要求するという事態が発生します。この事件は幕府の防衛体制の不備を露呈し、大きな衝撃を与えました。

さらに、ロシアによる蝦夷地襲撃や、各地での外国人上陸事件なども相次ぎました。1824年の大津浜事件や宝島事件では、外国人が上陸してトラブルを起こし、日本側の警戒心を一層強める結果となります。これらの出来事は、単なる偶発的事件ではなく、外国勢力の圧力が着実に強まっていることを示していました。

こうした状況を受け、幕府は従来の消極的な対応では国家を守れないと判断し、ついに全面的な排除政策として異国船打払令を発するに至ったのです。

異国船打払令の影響と問題点

モリソン号事件と国内批判

異国船打払令の影響を象徴する出来事が、1837年のモリソン号事件です。アメリカの商船モリソン号は、日本人漂流民を送り届ける目的で来航しましたが、日本側はこれを敵船と誤認し、砲撃を加えました。結果として、救助された日本人を乗せた船を攻撃するという事態となり、国内でも強い批判を招きました。

さらに問題となったのは、日本側の砲撃がほとんど効果を持たなかったことです。これにより、幕府の軍事力の弱さが露呈し、かえって外国に対する抑止力を欠いていることが明らかになりました。

この事件は、打払令の限界を示す象徴的な出来事であり、単なる強硬策では国を守れないという認識を広めるきっかけとなりました。

アヘン戦争と政策の見直し

異国船打払令の廃止に大きな影響を与えたのが、1840年に勃発したアヘン戦争です。当時、日本が大国と認識していた清がイギリスに惨敗したことは、幕府に大きな衝撃を与えました。

この敗北により、西洋列強の軍事力が想像以上に強大であることが明らかになり、日本も同様の危機に直面する可能性が強く意識されるようになります。その結果、従来のような無条件の排除政策ではなく、現実的な対応へと転換する必要があると判断されました。

こうして1842年、幕府は異国船打払令を廃止し、遭難船には食料や燃料を与える「天保の薪水給与令」を発令します。これは、再び穏健な対応へ戻ると同時に、日本が国際情勢の変化に対応し始めたことを示す重要な転換点でした。

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