豊烈神社とは?
山形市中心部に鎮座する豊烈神社は、山形藩主を務めた水野家ゆかりの神社です。水野家の藩祖・水野忠元を主祭神として祀り、明治13年(1880年)に創建されました。境内には山形藩の歴史を伝える史跡や顕彰碑が残されており、地域の歴史を感じられるスポットとして親しまれています。 また、毎年10月6日の例大祭で奉納される伝統行事「打毬(だきゅう)」でも知られています。これは水野家が藩士の武芸鍛錬のために奨励した騎馬競技で、現在も古式ゆかしい神事として受け継がれています。歴史と文化に触れながら参拝できる、山形を代表する神社の一つです。
所在地:山形県山形市桜町7-47
TEL:023-642-7108
参拝時間:9:00~17:00
御利益と御祭神
豊烈神社がお祀りしているのは水野忠元公、水野忠邦公、素盞雄尊、倉稲魂姫命。大山祇神、水野三郎右衛門元宣公以下明治維新殉難者24柱です。
・水野忠元公、水野忠邦公、素盞雄尊、倉稲魂姫命。大山祇神、明治維新殉難者24柱
◆御利益
・開運招福、厄除け、商売繁盛、交通安全、縁結びなど
歴史

豊烈神社は、水野家の藩祖である水野忠元を祀る神社です。その始まりは文政4年(1821年)、浜松藩主・水野忠邦が忠元を浜松城内に祀り、朝廷から「豊烈霊神」の神号を賜ったことにあります。その後、弘化5年(1848年)に水野忠精の山形転封に伴い山形城内へ遷座し、明治3年(1870年)には茨城県結城市山川へ移されました。
明治13年(1880年)、旧水野藩士たちが豊烈霊神の御分霊を迎え、現在の地に豊烈神社を創建します。その後、明治41年(1908年)には旧山形城三の丸周辺に祀られていた八坂大神や稲荷大神、山ノ神を合祀し、大正2年(1913年)には山川の本社を現在地へ遷座・併合しました。さらに大正10年(1921年)には、水野藩中興の祖として知られる水野忠邦公も祭神として祀られています。
また境内には、山形藩の発展に尽力した水野三郎右衛門元宣を顕彰する像が建てられています。戦時中には金属供出によって失われましたが、戦後に再建されました。現在の社殿は昭和56年(1981年)に改築されたもので、地域の人々に親しまれながら、水野家と旧山形藩の歴史を今に伝えています。
毎年10月6日の例大祭では、水野家が藩士の武芸鍛錬のために奨励したと伝わる「打毬(だきゅう)」が奉納されます。紅白に分かれた騎手が競い合う古式豊かな神事で、豊烈神社を代表する伝統行事として受け継がれています。
豊烈神社のアクセス
山形県山形市桜町7-47
◆交通機関
JR「山形駅」徒歩10分
豊烈神社の見どころをご紹介!

鳥居をくぐって参拝スタート!

参道を少し進んで見えるのが鳥居です。この鳥居は神明造りのものです。

参道を歩いていくと手水舎が見えてきます。こちらで身を清めていきましょう!

手水舎の上には金の龍がいらっしゃいました。「金運手水舎」と呼ばれるもので金運のご利益をいただくことができます。

その奥にあるのが社殿です。この社殿は1981年に改築されたものが現存します。

社殿の隣には稲荷神社があります。1958年に本殿にお祀りされていた倉稲魂命を配祀して建立されました。

鳥居の右手には「水野三郎右衛門元宣」の銅像があります。幕末に山形藩の指揮をとった首席家老で、山形藩を戊辰戦争の戦火から救った人物として評価されています。
山形藩は戊辰戦争時に、反維新政府の奥羽越列藩同盟に加盟します。しかし、奥羽越列藩同盟は次第に劣勢になっていき、幕末には小規模になっていた山形藩は恭順か抗戦か、周辺諸藩との関係をどうするかという難しい判断を迫られます。そうした中、水野三郎右衛門は戦費の調達や他藩との交渉に奔走しました。その成果もあり、山形は戦場となることなく敗戦を迎えました。

その他、豊烈神社では各種絵馬やおみくじをいただくことができます!

絵馬は合格祈願をはじめ、数種類のものがあります。
山形で楽しむ寺社仏閣めぐり

山形県には他にも寺社仏閣めぐりができる場所がたくさんあります。こちらの記事を参考に、寺社仏閣めぐりや旅行を楽しんでみてください!
まとめ
読んでいただきありがとうございました。
ぜひ、魅力溢れる豊烈神社にお立ち寄りください!


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