武田信成は、南北朝時代の甲斐で活動した武田氏の当主です。父の武田信武が足利氏を支えて得た立場を受け継ぎ、塩山の地を禅僧の抜隊得勝に寄進しました。この援助から、武田家と長く結びつく向嶽寺が生まれます。
信玄のような大合戦で知られる人物ではありませんが、信成の時代を知ると、武田氏が甲斐の寺院や地域に根を下ろしていく様子が見えてきます。この記事では、信武からの継承、向嶽寺への寄進、信春へ残したものを解説します。
ひと目でわかる武田信成
武田信成は信武の子、信春の父に当たる人物です。南北朝の争いが続く甲斐で武田家をつなぎ、1380年に塩山の土地を寄進して向嶽庵の成立を支えました。その死後も、寺院との関係は子孫に受け継がれます。
- 足利氏を支えた武田信武の子として、甲斐武田氏の家を受け継ぐ。
- 南朝方と北朝方の武士が争う甲斐で、信時流武田氏の立場を引き継ぐ。
- 1380年、抜隊得勝に塩山の土地を寄進する。
- 抜隊得勝が修行する向嶽庵の成立を支える。
- 子の信春へ、塩山周辺の寺院と結びつく武田家をつなぐ。
- 死後も向嶽寺との関係が続き、後の武田家当主が保護する寺の土台を残す。
武田信武の子として甲斐武田氏をつなぐ
南北朝の争いが武田一族を分けた
信成の父・武田信武が活動したのは、京都の北朝と吉野の南朝が並び立った時代でした。争いは朝廷だけで完結せず、各地の武士もどちらを支えるかによって分かれます。甲斐の武田一族も、一つの軍勢として同じ側に立っていたわけではありません。
石和を拠点とし石和政義は南朝方に付きました。一方、信武につながる信時流の武田氏は北朝方を支え、信武は甲斐守護として活動します。守護とは、幕府から一国の軍事や警察の役目を任された武士です。同じ武田姓でも、拠点や支持する側が違えば争うことがありました。
信成が引き継いだのは、こうした争いの中で父が築いた家でした。名字が同じというだけで甲斐の武士すべてを従えられる状況ではなく、地域との結びつきが大切になります。その歩みを示すのが、塩山に残る寺院への援助です。
信成と信春が深く関わった塩山
甲斐武田氏の古くからの拠点として知られているのが、現在の笛吹市にあたる石和です。しかし、信成とその子・信春の時代になると、現在の甲州市にあたる塩山周辺にも武田氏の足跡が多く残るようになります。
塩山の千野には、信成の法名にちなむ継統院があったとされ、信春もこの地に千野館を構えたと伝わっています。千野館の跡とされる場所には現在、慈徳院があります。信成と信春という二代にわたる武田氏の足跡が同じ地域に残っていることからも、塩山が武田氏にとって重要な場所になっていったことが分かります。
そして信成と塩山との関係を示しているのが、禅僧・抜隊得勝とのつながりです。信成は修行の場所を求めていた抜隊得勝に土地を寄進し、その活動を支えました。この土地に建てられることになるのが、後に武田氏とも深い関係を持つ向嶽寺です。
向嶽庵への寄進と信春に残したもの
1380年、抜隊得勝に寺の土地を与える
抜隊得勝は、各地で禅の修行を続けた僧です。禅とは、座禅などの修行を通じて悟りを求める仏教の教えをいいます。1378年に甲斐へ入り、塩山の竹森に庵を結んでいた抜隊に、信成は1380年、塩山の土地を寄進しました。そこにできた向嶽庵が、後の向嶽寺です。
寺を開くには、僧の教えだけでなく、修行する場所を継続して使えることも必要です。信成は土地を差し出し、抜隊は修行と教えを伝えました。このように寺の成立を支えた人を開基、教えを伝える最初の僧を開山と呼びます。信成と抜隊は、それぞれ違う役割で向嶽庵の出発を支えたのです。
信成の死後も続いた武田家と向嶽寺
信成の後、武田家は子の信春へと受け継がれました。信春も塩山周辺の寺院を保護し、千野には館を構えたと伝わっています。信成の晩年について詳しいことは分かっていませんが、土地の寄進や寺院とのつながりは、次の世代にも引き継がれていきました。
なかでも重要なのが、信成が土地を寄進したことをきっかけに開かれた向嶽寺です。信成の死後も武田氏と向嶽寺との関係は続き、後の当主たちも寺を保護しました。向嶽寺はその後、火災や戦乱に遭いながらも現在まで続いています。現在の建物が信成の時代からそのまま残っているわけではありませんが、その歴史をたどると、康暦2年(1380年)に信成が土地を寄進したことへ行き着きます。
信成は父・信武のように南北朝の各地を転戦した武将としてではなく、受け継いだ武田氏を次の信春へつなぎ、甲斐での基盤を整えていった人物でした。そして向嶽寺との関係は、信成の時代だけで終わらず、後世の武田氏へ受け継がれる大切なつながりとなったのです。


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