武田信重は、父の武田信満が上杉禅秀の乱で敗死した後、甲斐を離れた武田氏の当主です。幕府から守護に任じられてもすぐには帰国できず、1438年になって甲斐へ戻りました。しかし帰国後も国内の争いは続き、1450年に没します。
守護に任命された人物が、なぜ自分の国へ入れなかったのでしょうか。この記事では、信重の出国、京都の幕府と鎌倉府の対立、帰国後の小石和での活動と信守への継承を解説します。
ひと目でわかる武田信重
武田信重は信満の子で、信守の父です。1417年に父を失い、高野山で仏門に入りました。幕府が守護として復帰を進めても、甲斐の武士と鎌倉府の問題によって帰国は難航します。1438年に戻った後、小石和を拠点としましたが、1450年に生涯を終えました。
- 甲斐守護・武田信満の子として武田家に生まれる。
- 1417年、父が禅秀側の敗北によって追討され自害する。
- 甲斐を離れて高野山へ移り、仏門に入った。
- 幕府に守護として立てられても、鎌倉府の反対などで帰国が難航する。
- 幕府や信濃守護・小笠原氏の支援を受け、1438年に甲斐へ戻る。
- 小石和に館を構えたと伝わり、武田家の再興を進める。
- 1450年に没し、子の信守へ家が続く。
- 信守が父を弔う寺を設け、成就院に墓が伝わる。
父の敗死と、甲斐へ戻れない守護
信満を失い、高野山で仏門に入る
信重の父・武田信満は、甲斐守護として上杉禅秀の挙兵を支えました。禅秀は娘の嫁ぎ先でもあり、信満と婚姻で結ばれた人物です。しかし鎌倉公方の足利持氏に対する戦いは失敗し、1417年、信満も鎌倉府側から追討を受けて自害しました。武田家の本家は、当主を失う危機を迎えます。
信重は甲斐を離れ、高野山で仏門に入りました。一方、弟の信長は甲斐にとどまり、親族や家臣を集めて逸見氏と争います。逸見氏は甲斐に根を持つ武士の一族で、逸見有直は守護の地位を求めました。父の死後に一族が同じ場所へ集まり、すぐ家を立て直したわけではなかったのです。
信重が国外にいる間、甲斐では武士同士の争いが続きました。父の後を継ぐ立場があっても、それだけで館や土地を取り戻せる状況ではありません。信重を守護として甲斐へ戻そうとする幕府の動きは、国内の争いに加え、関東を統治する鎌倉府との関係にも左右されることになります。
幕府の任命と鎌倉府の反対が食い違う
京都の室町幕府は、信満の死後も武田家の者を甲斐守護に立てようとしました。守護は一国の軍事や警察を担う役職です。信満の弟・信元に続き、信重もその立場に任じられます。
しかし、関東を統治する鎌倉公方の足利持氏は、信重を守護とすることに反対しました。持氏にとって武田家は、上杉禅秀の乱で敵側に付いた家でもあります。将軍の足利義持と鎌倉公方の持氏が、甲斐の守護をめぐって異なる判断をしたため、信重の帰国は京都と鎌倉の政治問題にもなったのです。
一方、甲斐国内では逸見氏などの有力武士が勢力を持ち、のちに跡部氏も大きな力を持つようになります。守護が実際に甲斐を治めるには、幕府から任命されるだけでなく、各地に土地や軍勢を持つ武士たちを味方につける必要がありました。命令を出しても、それに従って兵を動かす武士がいなければ、守護としての力を十分に発揮できなかったからです。
つまり信重の甲斐復帰は、京都から甲斐へ戻れば終わるものではありませんでした。幕府や足利将軍家との関係を保ちながら、甲斐国内の有力武士とも関係を築き、武田氏を再びまとめていく必要があったのです。
1438年の帰国と、小石和で迎えた最期
幕府と小笠原氏の支援で甲斐へ戻る
信重が甲斐へ帰国したのは、1438年でした。父が敗死してから約20年が過ぎており、武田家の本家の当主が国外にいた期間の長さが分かります。帰国には幕府と、隣国である信濃の守護・小笠原氏の支援がありました。信重一人の力だけで、甲斐への復帰が実現したのではありません。
帰国後の信重は、現在の笛吹市石和町小石和に館を構えたと伝えられます。その館の場所とされるのが、成就院です。
ただし、帰国できたことは、甲斐の武士をすべて従えたことを意味しません。跡部氏は守護を補佐する守護代として強い力を持ち、各地には独自に動く武士もいました。支援を受けて国へ戻った信重には、こうした人々との関係を保ちながら家を続けていく課題が残っていました。
1450年の死と信守による父の供養
信重は宝徳2年(1450年)に亡くなりました。その最期については、小山城を拠点とした穴山伊豆守に攻められ、自害したという伝承があります。小山城は、現在の笛吹市八代町にあった城です。
信重の死後、武田家は子の信守へ受け継がれました。信守は父を弔うため、館の一角に成就院を設けたと伝えられています。
信守の時代になっても武田氏が甲斐を安定して支配できたわけではありません。国内では跡部氏が大きな力を持ち、その影響を無視できない状態が続きました。この状況を大きく変えるのは、さらに次の世代となる信昌の時代です。信重が戻した武田氏の足場は信守へ、そして跡部氏を退けて甲斐での勢力を立て直す信昌へと受け継がれていくことになります。


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