【日本史】武田信守とは?父信重の供養と信昌へつないだ甲斐武田氏

武田信守のアイキャッチ画像。和紙風の背景に扇を開いた人物のイメージ画と「History 武田信守」の文字。 室町時代

武田信守は、甲斐へ帰国した父・武田信重の後を継ぎ、信昌へ武田家をつないだ当主です。1450年に父を失い、1455年には自身も没しました。わずか5年ほどの在位ですが、その間には父を弔う寺を設けた足跡が残っています。

信守の時代、甲斐では当主を補佐する跡部氏が強い力を持っていました。この記事では、父から受け継いだ状況、成就院に残る供養の記憶、そして幼い信昌への継承をたどり、信守が武田氏の歴史をつないだ意味を解説します。

ひと目でわかる武田信守

武田信守は信重の子で、信昌の父です。甲斐へ戻った父が1450年に没すると家を継ぎ、守護代の跡部氏が力を持つ中で当主となりました。父の菩提寺として成就院を設けたと伝わり、1455年の死後は幼い信昌へ家が続きます。

  • 甲斐へ帰国した武田信重の子として、武田家の家系を受け継ぐ。
  • 1450年、父の信重が没した後に家督を継ぐ。
  • 守護代の跡部氏が強い力を持つ甲斐で当主となる。
  • 父の館の一角に成就院を設け、信重を弔った。
  • 1455年に没し、信守の当主としての時代は約5年で終わる。
  • まだ幼い子の信昌へ武田家が続く。

父信重から受け継いだ甲斐武田氏

1450年、帰国を果たした父の後を継ぐ

信守の父・武田信重は、長く甲斐を離れた後に国へ戻った人物でした。そのきっかけを生んだのは、祖父の武田信満が関わった上杉禅秀の乱です。信満は禅秀側に付きましたが、その側が敗れると追討を受け、1417年に自害しました。信重は甲斐を離れて高野山で仏門に入り、武田家の本家は当主が国外にいる時代を迎えます。

信重が帰国したのは1438年で、幕府や信濃守護の小笠原氏の支援がありました。現在の笛吹市石和町小石和に館を構えたと伝わります。父の帰国は、京都の幕府が任命する守護が甲斐で実際に活動するための拠点を取り戻す出来事でもありました。

しかし信重は1450年に没し、信守が家督を継ぎます。父がようやく戻った国で、当主の立場を続けていく必要があり、その際に向き合う相手の一つが跡部氏でした。

守護代の跡部氏が力を持つ甲斐

信守の時代を理解するには、守護と守護代の違いを押さえると分かりやすくなります。守護は幕府から一国の軍事や警察を担うよう任じられた役職です。守護代はその守護を補佐し、国内で実務を担いました。

そのため、武田氏が甲斐守護だからといって、当主の信守が自分の判断だけで国内を動かせたわけではありません。命令を各地へ伝え、必要なときに軍勢を集めるには、実際に現地の武士たちと結びついている跡部氏の力を無視できなかったのです。

父・信重が甲斐へ戻ったことで、武田氏は再び故国で活動する足場を取り戻しました。しかし、甲斐の実権まで完全に取り戻したわけではありませんでした。この武田氏と跡部氏の力関係を大きく変えていくのが、信守の次に武田家を継ぐ信昌です。

父の供養と、信昌への継承

成就院に残した父を弔う場所

信守は父・信重が亡くなった後、その菩提寺として成就院を建てたと伝えられています。菩提寺とは、亡くなった人を弔い、一族の供養を行う寺のことです。

成就院が建てられたのは、信重が館を構えていた場所の一角だったとされています。父が甲斐へ戻って生活した場所に、信守がその死後、供養のための寺を建てたことになります。

現在の成就院には、信重の墓と伝えられるものが残っています。信重が甲斐へ戻って築いた館と、その父を弔った信守の寺が同じ場所に重なることで、武田氏がこの地に再び根を下ろしていった様子を現在も伝えています。

1455年の死と、幼い信昌が担った家

信守は康正元年(1455年)に亡くなりました。父・信重が亡くなった1450年からわずか5年ほどであり、武田家の当主として活動した期間は長くありませんでした。信守の生年や最期については詳しいことが分かっておらず、どのような経緯で亡くなったのかもはっきりしていません。

信守の跡を継いだ信昌は、嘉吉3年(1443年)生まれとも文安4年(1447年)生まれともされ、父を失ったときはまだ若い当主でした。この後信昌は跡部氏との戦いに進んでいくこととなります。

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