【日本史】源為朝とは?保元の乱を戦った弓の名手と伊豆大島での最期

平安時代

源為朝(みなもとのためとも)は、平安時代末期に弓の名手として知られた武将です。九州で活動して「鎮西八郎」と呼ばれ、1156年の保元の乱では父・源為義とともに崇徳上皇を支えました。しかし、兄の源義朝が加わった後白河天皇側に敗れ、伊豆大島へ流されます。

島に渡ってからも、その生涯は静かには終わりませんでした。やがて追討を受けて自害したと伝えられる一方、後世には海を渡る英雄や、疱瘡の神を追い払う守り神として描かれます。この記事では、為朝が戦った時代と最期への流れをたどり、その人物像が物語や信仰の中でどのように広がったのかを解説します。

ひと目でわかる源為朝

源為朝は、源為義の子として生まれ、九州で武力を振るったのち、保元の乱で崇徳上皇側の戦いを担った人物です。敗戦後は伊豆大島へ流され、島々での活動を経て追討を受け、自害したと伝わります。その弓の腕は、死後も軍記物語や疫病よけの信仰に受け継がれました。

  • 源為義の八男として生まれ、源義朝の弟・源頼朝の叔父にあたる
  • 九州で活動し、九州を意味する「鎮西」と排行にちなむ「八郎」を合わせて呼ばれる
  • 1154〜1155年ごろ、九州での行動が朝廷に問題視され、父・為義にも処分が及ぶ
  • 1156年の保元の乱で、父とともに崇徳上皇側の軍勢に加わる
  • 兄・義朝のいる後白河天皇側に敗れ、捕らえられたのち伊豆大島へ流される
  • 流罪後も伊豆諸島で勢力を広げたと伝えられ、狩野茂光の追討を受けて自害する
  • 『保元物語』や江戸時代の『椿説弓張月』で、強弓を操る英雄として描かれる
  • 八丈島の伝承と結びつき、疱瘡を遠ざける守り神として疱瘡絵や札に登場する

鎮西八郎と呼ばれるまで

源為義の子として生まれ、九州へ向かう

為朝は1139年に生まれたとされ、源為義の八男にあたります。兄には源義朝がおり、のちに鎌倉幕府を開く源頼朝から見ると叔父です。頼朝と同じ源氏でも、為朝が主に活動したのは、まだ幕府が生まれる前の時代でした。源氏の一族に生まれた武士たちは、それぞれ朝廷の有力者に仕えたり、地方で仲間を集めたりしていました。

為朝の若いころを伝える『保元物語』は、父に九州へ追いやられ、十三歳から豊後国、現在の大分県にあたる地域で暮らしたと語ります。この幼少期の詳しい筋書きは、軍記物語として伝えられたものです。一方、為朝が実際に九州で活動し、朝廷から問題視されたことは、当時の日記にも記されています。

「鎮西」は九州を指す呼び名で、「八郎」は八番目の男子にちなむ名です。鎮西八郎という通称には、出自だけでなく、九州で名を知られた武士という姿が重なっています。

九州での活動が父の処分につながる

為朝が九州で勢力を広げると、その行動は都でも問題になりました。平信範の日記『兵範記』には、1154年、為朝の九州での行動を理由として父・為義が官職を止められたことが記されています。さらに『百錬抄』には、翌1155年、豊後国にいた為朝が大宰府を騒がせ、その管内を威圧していたことが記されています。

大宰府は、九州の行政や外交を担った朝廷の重要な拠点です。朝廷は大宰府に対し、為朝本人だけでなく、為朝に協力する者たちも取り締まるよう命じました。さらに、九州にいる息子の行動によって、都にいた父・為義まで官職を失いました。

やがて為朝は都へ戻り、今度は朝廷そのものを二つに分ける大きな争いに巻き込まれていきます。

保元の乱で父とともに戦う

崇徳上皇と後白河天皇の争いで源氏も分かれる

1156年、鳥羽法皇が亡くなると、朝廷の主導権をめぐる争いが武力衝突へ進みました。対立したのは、皇位の継承に不満を抱えていた崇徳上皇と、その弟である後白河天皇です。さらに、天皇を補佐する摂関家でも、藤原頼長と兄・忠通が別々の側に立ちました。皇室と貴族の争いに、武士たちの軍勢が呼び集められたのです。

為朝は、父・為義とともに崇徳上皇・頼長の側に加わりました。一方、兄・義朝は後白河天皇側に立ち、平清盛も同じ陣営に参加します。平氏でも、清盛の叔父・平忠正は上皇側でした。保元の乱は「源氏対平氏」の戦いではなく、源氏も平氏も、一族の中で敵味方に分かれた戦いだったのです。

弓の武勇を伝える『保元物語』と敗戦

『保元物語』では、為朝は崇徳上皇側を代表する強い武者として登場します。物語では一矢で二人を倒すなど弓の達人として描かれています。また、敵を射抜く弓の力だけでなく、先に夜襲をかけるよう進言する場面も描かれています。しかし、藤原頼長はその提案を採りませんでした。逆に後白河天皇側が先に攻め、上皇側は守る立場に置かれたというのが、物語の描く戦いの流れです。

戦いの結果は、後白河天皇側の勝利でした。短時間で崇徳上皇側の軍勢は敗れ、崇徳上皇は讃岐へ流され、藤原頼長は負傷して死亡しました。父・為義らにも死罪が下されます。為朝がどれほど強い武者として語られても、一人の武勇だけで陣営全体の敗北を覆すことはできませんでした。

そして敗者となった為朝自身も捕らえられ、都から遠く離れた伊豆大島へ送られることになります。

伊豆大島への流罪と最期

敗戦後に捕らえられ、島へ流される

保元の乱で敗れた為朝は、いったん近江、現在の滋賀県にあたる地域へ逃れたと伝えられます。しかし、そのまま九州へ戻ることはできず、捕らえられて伊豆大島へ流されました。流罪とは、罪を問われた人を遠い土地へ送り、元の場所から離して暮らさせる刑罰です。

『保元物語』では、このとき為朝が再び弓を引けないよう腕を傷つけられたとも語られています。それでも後には再び弓を使えるようになったとされ、流罪になっても失われない為朝の強さが強調されています。

しかし、伊豆大島へ流された後も為朝の物語は終わりませんでした。為朝は大島や周辺の島々で再び勢力を持つようになったと伝えられ、やがて朝廷側から再び追討されることになります。

狩野茂光の追討を受けて自害する

為朝は、伊豆諸島で勢力を広げたのち、狩野茂光の追討を受けて自害したと伝えられます。茂光は伊豆の武士で、狩野介、工藤茂光とも呼ばれる人物です。為朝の最期については1170年とする説がよく知られる一方、異なる年代を伝える説もあります。そのため細かな年次については注意が必要です。

こうして為朝は、兄・義朝の子である頼朝のように新しい政権を築くことなく生涯を終えました。九州で朝廷から問題視され、保元の乱では敗者となり、最後は流刑地でも追討を受けています。歴史上の為朝だけを見れば、決して「勝ち続けた英雄」ではありません。

ところが、その敗北の多い生涯とは対照的に、為朝の死後、その武勇はますます大きな物語へと成長していきました。

物語の英雄から疫病よけの守り神へ

『椿説弓張月』が琉球へ渡る英雄を描く

為朝の名を長く伝えたのは、保元の乱での勝利ではなく、軍記や伝説が描く武勇でした。『保元物語』では、巨大な体と強い弓を備えた武者として、敗れた陣営の中でも際立つ姿を見せます。その後、伊豆諸島や琉球にも為朝の伝承が広がりました。琉球の舜天王を為朝の子とする話まで出てきています。

江戸時代には、曲亭馬琴が為朝を主人公に『椿説弓張月』を書き、葛飾北斎が挿絵を描きました。1807年に刊行が始まり、1811年に完結した長編です。作品では、保元の乱に敗れた為朝が伊豆大島からさらに海を渡り、琉球の争いにも関わっていきます。

現実には敗者として島へ流された武将が、物語の世界では海を越えて活躍する英雄へ生まれ変わったのです。

もちろん、『椿説弓張月』を為朝が実際に琉球へ渡った証拠とすることはできません。しかし、為朝を題材にした絵や双六なども作られたことから、その物語が江戸時代の人々に広く親しまれていたことが分かります。そして為朝の「強さ」は、やがて戦いだけではなく、人々を病から守る力にも結びつけられていきました。

疱瘡神を弓で追い払ったと伝えられる

疱瘡とは天然痘のことで、かつて多くの人々に恐れられた感染症です。病気の原因が現在のように理解されていなかった時代、人々は疱瘡をもたらす存在を「疱瘡神」と呼び、さまざまな祈りやまじないによって遠ざけようとしました。そこで病を追い払う存在として信仰された人物の一人が、強弓で知られた為朝です。

伊豆大島には、為朝と疱瘡神を結びつける伝承があります。

あるとき、筵に乗った一人の老翁が島へ流れ着きました。老翁は自らを疱瘡の神と名乗り、京都で疱瘡を流行させた後、大島へやって来たと語ったといいます。これを聞いた為朝は、島の人々を守るため、老翁に立ち去るよう命じました。そして弓矢を向けると、疱瘡神は為朝の弓の威力を恐れ、退散したと伝えられています。

その後、大島では疱瘡が流行しなかったとされ、為朝は病を遠ざける存在として信仰されるようになりました。

為朝の名や姿が疱瘡除けのお守りになる

為朝への信仰は、伊豆大島だけにとどまりませんでした。江戸時代には為朝を描いた「疱瘡絵」が作られました。赤を中心に描かれたものも多く、赤には病や災いを遠ざける力があると考えられていました。さらに家の戸口へ「鎮西八郎為朝御宿」などと書いた札を貼る風習もありました。「この家には為朝がいる」と疱瘡神に示し、強弓の武者を恐れて近づかないよう願ったのです。

保元の乱で敗れ、伊豆大島へ流された為朝。その流罪という歴史が島での伝説を生み、強弓という武勇の記憶が「病を追い払う力」へ変化していきました。実際には保元の乱に敗れた一人の武士が、軍記物語では強弓の英雄となり、江戸時代には海を越える主人公となり、さらに人々の暮らしのなかでは病を遠ざける守り神になりました。

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