【日本史】鳥羽天皇とは?白河から継いだ院政と皇位継承の歩みを解説

鳥羽天皇の肖像を用いたアイキャッチ画像 平安時代

鳥羽天皇(とばてんのう)は、平安時代後期に即位し、退位後には上皇・法皇として政治を行った天皇です。祖父の白河法皇が実権を握るなかで育ち、その死後に院政を引き継いで、崇徳・近衛・後白河の三代にわたる朝廷の政治に関わりました。

鳥羽の生涯は、天皇の位を退いた人物が、どのように政治を動かしたのかを考えるうえで重要です。幼少期の即位から院政の開始、寺院造営と平氏の登用、皇位継承をめぐる動きまで、順を追って見ていきましょう。

ひと目でわかる鳥羽天皇

鳥羽天皇は、幼くして即位し、白河法皇の死後に院政を引き継いだ天皇です。寺院や荘園を通じて皇室の基盤を広げ、近衛・後白河への皇位継承を進めました。1156年に亡くなると、皇室と摂関家に残されていた対立が保元の乱へ発展します。

  • 1103年、堀河天皇の子として生まれる。
  • 1107年に即位し、1123年に崇徳天皇へ譲位する。
  • 1129年、白河法皇の死後に院政を始める。
  • 安楽寿院などを造営し、寺院や荘園を通じて皇室の基盤を広げる。
  • 1141年に近衛天皇への譲位を進め、出家後も院政を続ける。
  • 1155年、近衛天皇の死後に後白河天皇を立てる。
  • 1156年に亡くなり、その後、皇室と摂関家の対立が保元の乱へ発展する。

白河法皇のもとで即位し、崇徳天皇へ譲位する

1107年、父・堀河天皇の死によって即位する

鳥羽天皇は康和5年(1103年)、堀河天皇と藤原苡子の皇子として生まれました。名は宗仁親王といい、祖父にあたるのが院政を始めた白河天皇です。母の苡子は宗仁親王が生まれてまもなく亡くなったため、鳥羽天皇は幼い頃から母を失っていました。

嘉承2年(1107年)、父の堀河天皇が亡くなると、宗仁親王は5歳で即位し、第74代鳥羽天皇となりました。

しかし、当時の朝廷では、すでに皇位を退いて出家していた白河法皇が政治を主導していました。上皇や法皇が天皇に代わって政務や皇位継承に関わる仕組みを院政といい、白河法皇は自らが築いた院政のもとで、朝廷の人事や政治上の重要な判断を行っていたのです。

鳥羽天皇は天皇として儀式などに参加しながら成長しましたが、成人後も白河法皇の政治的な影響力は衰えませんでした。皇位に就いていても、実際に政治の主導権を握ることができるとは限らなかったのです。

1117年、白河法皇の養女・藤原璋子を中宮とする

永久5年(1117年)、鳥羽天皇は藤原璋子を中宮に迎えました。璋子は権大納言・藤原公実の娘で、幼い頃から白河法皇のもとで育てられた女性です。白河法皇は璋子を養女として大切にしており、鳥羽天皇との婚姻も法皇の意向によって進められたと考えられています。

翌元永元年(1118年)、璋子は鳥羽天皇のもとへ入内し、中宮として宮廷での生活を始めました。そして元永2年(1119年)、二人の間に顕仁親王が生まれます。顕仁親王は後の崇徳天皇です。

白河法皇にとって、鳥羽天皇と璋子の間に皇子が生まれたことは、皇位を次の世代へつなぐうえで重要でした。鳥羽天皇自身も父となりましたが、その後の皇位継承については、引き続き白河法皇が大きな影響力を持つことになります。

1123年、崇徳天皇へ譲位するも院政は始められず

保安4年(1123年)、鳥羽天皇は白河法皇の意向によって、皇子の顕仁親王へ皇位を譲りました。顕仁親王は5歳で即位し、第75代崇徳天皇となります。一方、鳥羽天皇は21歳で上皇となりました。

通常、天皇が譲位して上皇となれば、その後は院政を始める可能性がありました。しかし、当時は白河法皇が存命であり、朝廷の政治を引き続き主導していました。

鳥羽上皇は皇位を退いたものの、すぐに自ら政治を動かせるようになったわけではありません。

白河法皇は人事や所領の問題に関わり続け、鳥羽上皇はそのもとで生活することになります。自らの考えを朝廷の政治に反映させるには、祖父の白河法皇が亡くなるのを待たなければならなかったのです。

白河法皇の死後、院政の主導権を握る

1129年、白河法皇の死によって院政を始める

大治4年(1129年)7月7日、白河法皇が亡くなりました。これによって、長年にわたって政治の中心にいた人物がいなくなり、鳥羽上皇が新たに院政を始めることになります。鳥羽上皇は27歳となっており、すでに朝廷での経験を積んでいました。

鳥羽上皇が取り組んだのは、白河法皇の時代に形成された政治体制を引き継ぎながら、自らの意向で人事を進めることでした。その一例が、藤原忠実の政界復帰です。

忠実は摂政・関白を務めた有力な公卿でしたが、白河法皇の信任を失い、保安2年(1121年)には関白の地位を長男の忠通へ譲って政治の中心から退いていました。鳥羽上皇は白河法皇の死後、忠実を再び政治に関わらせるようになります。また、白河法皇が生前に反対していた忠実の娘・藤原泰子の入内も進め、長承2年(1133年)には泰子を皇后としました。

ただし、忠実が復帰したからといって、息子の藤原忠通が摂政・関白の地位を失ったわけではありません。鳥羽上皇は忠実と忠通の双方との関係を保ちながら、自らの院政を進めていきました。

藤原家成ら院近臣を重用し、政治を進める

鳥羽上皇は院政を始めると、自らに仕える貴族たちを重用し、朝廷の政務や所領の管理を担わせました。

こうした上皇の側近は「院近臣(いんのきんしん)」と呼ばれます。院近臣は上皇の身近で命令を受けるだけでなく、国司として地方へ赴いたり、院の寺院造営や荘園の管理を担当したりするなど、さまざまな仕事を担っていました。

鳥羽上皇のもとで重要な役割を果たした人物の一人が、藤原家成です。家成は鳥羽上皇の信任を受けて昇進し、院の財政や寺院造営に深く関わりました。また、地方の国司を務めた経験や有力な貴族たちとの関係を利用し、上皇の政治を支えています。

鳥羽上皇はこうした院近臣を通じて、自らの命令を朝廷の人事や地方の支配へ反映させました。

一方、摂政・関白を務める藤原忠通らも引き続き朝廷で活動しており、鳥羽上皇の院政が貴族の政治をすべて置き換えたわけではありません。上皇自身が重要な方針を決め、院近臣や公卿たちがその実施を担うという関係によって、鳥羽上皇は政治の主導権を握っていったのです。

1132年、平忠盛の寺院造営を評価して昇殿を認める

鳥羽上皇は貴族だけでなく、武士との関係も重視していました。その代表的な人物が、後に平氏政権を築く平清盛の父・平忠盛です。忠盛は白河法皇の時代から院に仕え、地方の国司や武士の統率者として活動していました。

鳥羽上皇の院政が始まると、忠盛は引き続き上皇に仕え、寺院の造営にも関わるようになります。長承元年(1132年)、忠盛は鳥羽上皇が発願した得長寿院の造営を完成させました。得長寿院には中央の大きな観音像と、その左右に並ぶ千体の観音像が安置され、大規模な仏教施設となりました。

鳥羽上皇はこの造営を高く評価し、忠盛に内裏への昇殿を認めました。昇殿とは、天皇の居所である清涼殿の殿上の間へ入ることを許されることです。当時、殿上の間には主に高位の貴族が出入りしており、武士である忠盛が昇殿を認められたことは、宮廷での地位を高める大きな出来事でした。

鳥羽上皇は寺院造営を担った忠盛に恩賞を与えることで、その働きを評価するとともに、伊勢平氏との関係も深めました。

後に清盛が朝廷で大きな権力を握るようになりますが、その前の世代から、平氏は鳥羽上皇の宗教事業や政治を支えることで地位を高めていたのです。

鳥羽離宮と安楽寿院の造営

鳥羽離宮を整備し、院政の拠点とする

鳥羽上皇が院政を進めるうえで重要な場所となったのが、京都南部の鳥羽離宮です。鳥羽離宮は、もともと白河法皇が応徳3年(1086年)から造営を始めた大規模な離宮でした。現在の京都市伏見区周辺に広がり、御所や庭園、寺院などが集まる場所となっていました。

鳥羽上皇は白河法皇が築いた離宮を引き継ぎ、さらに整備を進めました。

離宮には上皇の住まいとなる御所だけでなく、仏教の儀式や供養を行う御堂が建てられていました。鳥羽上皇はこうした施設を利用しながら、院近臣や公卿たちと会い、政務を進めていたのです。

また、離宮には多くの人々が出入りし、寺院の法会や朝廷の儀式も行われました。鳥羽上皇にとって離宮は、単に暮らす場所ではなく、政治と宗教活動の両方を進めるための重要な拠点でした。

鳥羽離宮の建物の多くは失われていますが、周辺には安楽寿院などの寺院が残り、発掘調査によって当時の建物や庭園の跡が確認されています。

1137年、安楽寿院を建立する

保延3年(1137年)、鳥羽上皇は鳥羽離宮の東殿を寺院へ改め、安楽寿院を創建しました。安楽寿院は鳥羽上皇の信仰を支える寺院であり、覚法法親王を導師として落慶の法要が行われました。

当時の上皇や貴族たちは、寺院を建立し、仏像を祀ることで、現世の安穏や死後の極楽往生を願っていました。鳥羽上皇も仏教への信仰が深く、自らのための御堂や仏像の造営を積極的に進めていました。

保延5年(1139年)には、院近臣の藤原家成が造営に関わった三重塔が完成します。この塔は「本御塔」と呼ばれ、鳥羽上皇自身の墓所となることを想定して造られました。塔には阿弥陀如来像が安置され、法要が行われました。また、安楽寿院にはその後も阿弥陀堂や不動堂などが建てられ、鳥羽離宮を代表する寺院の一つとなっていきます。

鳥羽上皇は自らの墓所を生前に準備するほど、死後の供養にも関心を持っていました。こうした寺院造営は上皇の信仰を表すとともに、造営を担当した院近臣や武士たちが功績を挙げ、朝廷での地位を高める機会にもなっていたのです。

安楽寿院領を整え、院の経済的な基盤を広げる

鳥羽上皇は寺院を建立するだけでなく、その運営を支えるための所領の確保にも取り組みました。寺院では仏像や建物を維持するだけでなく、僧侶の生活や日々の法要にも費用が必要でした。そのため、安楽寿院には各地の荘園が寄進され、寺院の収入を支えるようになります。

荘園とは貴族や寺社などが権利を持ち、年貢などを受け取る土地です。鳥羽上皇は院近臣を通じて各地の荘園を管理し、その収入を寺院造営や院政の運営に利用しました。

また、鳥羽上皇は自らの所領を后や皇子・皇女へ譲り、皇室の財産として受け継がれるようにしていました。

永治元年(1141年)に出家した際には、娘の暲子内親王や美福門院らへ荘園を譲っています。暲子内親王は後に八条院と呼ばれ、鳥羽上皇や美福門院から受け継いだ所領は、後の八条院領の基盤となりました。

鳥羽上皇の寺院造営と所領の管理は、信仰のためだけの活動ではありませんでした。院政を続けるための財政を支え、自らの死後も皇室が利用できる経済的な基盤を残すことにつながっていたのです。

近衛天皇と後白河天皇の即位を進める

1141年、崇徳天皇を退位させて近衛天皇を立てる

鳥羽上皇は院政を始めた後、皇位継承にも強い影響力を持つようになりました。その転機となったのが、藤原得子との間に生まれた体仁親王の誕生です。得子は鳥羽上皇の寵愛を受ける女性で、保延5年(1139年)に体仁親王を産みました。得子は後に美福門院と呼ばれる人物です。

鳥羽上皇は体仁親王を次の天皇に立てようと考え、誕生から間もなく皇太子にしました。そして永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇を退位させ、体仁親王を即位させます。これが第76代近衛天皇です。

崇徳天皇は鳥羽上皇の第一皇子でしたが、体仁親王はその異母弟にあたります。鳥羽上皇は自らが重用する美福門院の皇子を即位させることで、皇位継承への影響力をさらに強めました。

しかし、崇徳天皇にとって、この譲位は院政を始める機会にはなりませんでした。新天皇は崇徳天皇の子ではなく弟であり、しかも鳥羽上皇はまだ政治の実権を握っていました。そのため、崇徳上皇は皇位を退いても自ら院政を主導することができず、鳥羽上皇が引き続き朝廷の政治を進めることになります。

こうした皇位継承は、後に崇徳上皇と鳥羽法皇の関係が悪化する背景の一つとなりました。

1141年、出家して法皇となる

近衛天皇への譲位が行われた永治元年(1141年)、鳥羽上皇は出家しました。出家後は鳥羽法皇と呼ばれるようになります。

しかし、鳥羽法皇は出家しても政治の第一線から退きませんでした。引き続き近衛天皇のもとで院政を行い、朝廷の人事や所領、寺院造営などの重要な問題に関わり続けます。

一方、崇徳上皇も皇位を退いていたため、当時の朝廷には鳥羽法皇と崇徳上皇という二人の退位した天皇が存在することになりました。しかし、院政を主導していたのは鳥羽法皇であり、二人が同じような政治的権限を持っていたわけではありません。

鳥羽法皇は藤原忠通や院近臣たちを通じて政治を進め、近衛天皇の成長を見守りながら、自らの院政を維持しました。

1155年、近衛天皇の死後に後白河天皇を即位させる

久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇が亡くなりました。近衛天皇には皇位を継ぐ皇子がいなかったため、鳥羽法皇は新たな天皇を選ばなければなりませんでした。

このとき候補となった人物の一人が、崇徳上皇の皇子・重仁親王です。しかし、鳥羽法皇は重仁親王を後継者に選ばず、崇徳上皇の同母弟である雅仁親王を即位させます。これが第77代後白河天皇です。

鳥羽法皇が雅仁親王を選んだ背景には、その息子である守仁親王の存在がありました。守仁親王は美福門院のもとで養育されており、鳥羽法皇や美福門院が重視する皇位継承の流れに位置づけられていました。

ただし、守仁親王の父である雅仁親王はそれまで天皇になっていませんでした。そのため、まず雅仁親王を後白河天皇として即位させ、守仁親王を皇太子に立てることで、次の世代への皇位継承を整えようとしたのです。こうして鳥羽法皇は近衛天皇の死後も皇位継承を主導し、自らの意向に沿った政治体制を維持しました。

しかし、崇徳上皇の皇子である重仁親王が即位できなかったことで、崇徳上皇の側には不満が残ることになります。

さらに朝廷では、藤原忠通と弟の頼長が摂関家の地位をめぐって対立していました。鳥羽法皇の晩年には、皇位継承と摂関家の家督をめぐる争いが、次第に大きな問題となっていったのです。

鳥羽法皇の死と保元の乱

1156年、安楽寿院で54歳の生涯を終える

保元元年(1156年)7月2日、鳥羽法皇は安楽寿院で亡くなりました。鳥羽法皇は嘉承2年(1107年)に幼くして即位しましたが、その治世では白河法皇が政治を主導していました。保安4年(1123年)に崇徳天皇へ譲位した後も、白河法皇が存命の間は自ら院政を行うことができませんでした。

しかし、大治4年(1129年)に白河法皇が亡くなると、鳥羽上皇は院政を始め、藤原忠実の復帰や院近臣の登用を通じて政治の主導権を握りました。また、平忠盛らを重用し、得長寿院や安楽寿院の造営を進めながら、院政を支える経済的な基盤も整えました。

皇位継承では、1141年に崇徳天皇を退位させて近衛天皇を立て、1155年には後白河天皇の即位を進めています。鳥羽法皇は亡くなるまで、崇徳・近衛・後白河の三代にわたって院政を行いました。

遺体は生前に墓所として準備していた安楽寿院の本御塔に納められました。現在の京都市伏見区にある安楽寿院陵が、鳥羽天皇の陵として宮内庁によって管理されています。

鳥羽法皇の死後、保元の乱が起こる

鳥羽法皇の死後、朝廷では皇位継承をめぐる対立が一気に表面化しました。それまで鳥羽法皇は、崇徳上皇と後白河天皇の双方に対して強い影響力を持っていました。しかし、法皇が亡くなったことで、両者の間に残されていた問題を調整する人物がいなくなったのです。

さらに摂関家では、関白の藤原忠通と弟の藤原頼長が家督や政治上の権限をめぐって対立していました。崇徳上皇は頼長と結び、後白河天皇に対抗する立場を取ります。一方、後白河天皇の側には忠通が加わり、双方は武士を集めて戦いに備えるようになりました。

保元元年(1156年)7月11日、京都の白河北殿を中心に武力衝突が起こります。これが保元の乱です。

後白河天皇方には平清盛や源義朝らが加わり、崇徳上皇方には源為義や源為朝、平忠正らが従いました。戦いは後白河天皇方の勝利に終わり、崇徳上皇は讃岐へ流され、頼長も負傷して亡くなります。

ただし、保元の乱を鳥羽法皇と崇徳上皇の不仲だけで説明することはできません。皇位継承に加え、摂関家の内部対立や、朝廷に仕えていた武士たちの利害も重なっていました。

鳥羽法皇は生前、皇位継承と朝廷の政治を強い権限によって主導していました。しかし、その死後には皇室と摂関家の対立が武力衝突に発展し、政治上の争いを武士の軍事力によって決着させる時代へと進んでいったのです。

鳥羽天皇は、白河法皇のもとで即位した後、自らも院政を行い、朝廷の人事や皇位継承、寺院造営を通じて政治を主導した天皇・法皇です。 特に、藤原氏や院近臣、武士を用いて政治を進め、鳥羽離宮と安楽寿院の造営や荘園の集積によって院政の基盤を整えたことが、その治世の大きな特徴でした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました