【日本史】真田信繁/真田幸村とは?九度山から真田丸・大坂の陣に至る生涯

安土桃山時代

真田信繁(さなだのぶしげ)は、大坂の陣で豊臣方として戦った武将です。冬の陣では出城の真田丸で徳川軍を退け、夏の陣では徳川家康の本陣に迫りました。「真田幸村」の名で広く知られますが、書状にもあるような正式名称は「信繁」です。

その生涯は、大坂での戦いだけでは分かりません。父・昌幸の外交によって上杉家へ人質に出され、豊臣秀吉に仕えた後、関ヶ原の戦いでは西軍に属して領地を失いました。長い九度山での生活を経て、なぜ再び戦場に立つことになったのか。真田家の立場と、豊臣・徳川両家の関係の変化をたどります。

ひと目でわかる真田信繁(幸村)

信繁は真田昌幸の次男で、兄は信幸(のちの信之)です。1600年には父と上田城を守りましたが、西軍全体の敗北によって配流されました。1614年に大坂城へ入り、翌年の夏の陣で戦死します。

  • 1585年、父の上杉氏への服属に伴い、上杉家へ人質として送られる。
  • その後、豊臣秀吉に仕え、1594年に従五位下・左衛門佐に任じられる。
  • 1600年、父と西軍に属し、上田城で徳川秀忠の軍を迎え撃つ。
  • 関ヶ原の本戦で西軍が敗れ、高野山への配流を経て九度山で暮らす。
  • 1614年、豊臣方の招きに応じて大坂城へ入り、冬の陣で真田丸を守る。
  • 1615年、夏の陣で家康の本陣に攻め込み、5月7日に戦死する。

上杉家への人質から、豊臣秀吉に仕える武将へ

武田氏の滅亡と、沼田領をめぐる対立

信繁は、武田氏の家臣だった真田昌幸の次男として生まれました。真田家は信濃の小県(現在の長野県上田市周辺)を本拠とし、上野の吾妻・沼田方面(現在の群馬県北部)にも勢力を広げていました。

天正10年(1582年)、織田・徳川軍の侵攻によって武田氏が滅亡します。昌幸は織田信長に従いましたが、その信長も同年6月の本能寺の変で亡くなりました。旧武田領をまとめる勢力が相次いで失われ、徳川・北条・上杉の各氏が、その支配を争うようになります。

周囲の大名に単独で対抗できるほど大きくなかった真田家にとって、誰に従い、領地を守るかが重要でした。昌幸はいったん徳川家康に従います。しかし、家康が北条氏との関係を整えるため、真田氏の押さえる沼田領を北条氏へ渡そうとしたことから、両者は対立しました。

天正13年(1585年)、昌幸は家康から離れ、越後(現在の新潟県)の上杉景勝に従いました。その服属の約束を保証するため、上杉家へ人質として送られたのが信繁です。同年、徳川軍が上田城を攻める第一次上田合戦が起こります。父の外交方針が、若い信繁の暮らす場所と立場を変えたのです。

秀吉の馬廻となり、豊臣家との関係を深める

その後、全国への支配を広げる豊臣秀吉のもとに真田家も組み込まれていきます。昌幸が秀吉に従うと、信繁も秀吉のもとへ移りました。

文禄元年(1592年)には、信繁が秀吉の馬廻衆に属していたことが史料から分かります。馬廻衆とは、主君の身近で警護などを担う武士たちです。上杉家への服属を保証する人質だった信繁は、やがて秀吉に直接仕える武将として活動するようになりました。文禄3年(1594年)には従五位下・左衛門佐に任じられ、朝廷の官位も得ています。

信繁は秀吉の重臣・大谷吉継の娘を妻としました。一方、兄の信幸は家康に仕え、その重臣・本多忠勝の娘の小松姫と結婚しています。当時は家康自身も秀吉に従っていたため、兄弟が敵味方に分かれたわけではありません。ただ、信繁は秀吉や大谷家、信幸は家康や本多家と、それぞれ異なる主従・婚姻関係を持っていました。

関ヶ原で西軍に属し、上田から九度山へ移る

父と弟は西軍、兄は東軍につく

慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、幼い秀頼を支える豊臣政権の内部で、有力大名たちの対立が深まりました。慶長5年(1600年)、家康は対立する会津の上杉景勝を討つため東へ向かい、昌幸・信幸・信繁もその軍に加わります。ところが、その間に石田三成らが家康に対して兵を挙げました。

ここで真田父子の進路が分かれます。昌幸と信繁は家康の軍を離れて上田へ戻り、三成らの西軍に加わりました。信幸は家康の東軍に残ります。この父子の別れは、現在の栃木県佐野市付近での出来事として「犬伏の別れ」と呼ばれています。

このときの話し合いを「どちらが勝っても真田家を残すためだった」とする説は、後世の伝承です。

上田城は守り抜くが、関ヶ原の本戦で西軍が敗れる

家康の子・徳川秀忠は、東軍の別働隊を率いて中山道方面を西へ進みました。その途中に攻めたのが、昌幸と信繁の守る上田城です。これが第二次上田合戦でした。信繁は関ヶ原の本戦ではなく、信濃の上田で西軍側の戦いに加わったのです。

真田方は上田城を守り抜き、秀忠軍は城を落とさないまま西へ進みました。

9月15日、関ヶ原の本戦では東軍が勝利しました。上田で城を守り抜いても、昌幸と信繁が属した西軍そのものが敗れたため、父子は戦後の処分を受けます。領地を失い、高野山へ配流されました。一方、東軍についた信幸は領主として残り、父の旧領だった上田も与えられます。

九度山での生活と、父・昌幸の死

昌幸と信繁は高野山への配流後、その山麓にある九度山で暮らしました。現在の和歌山県北部にあたる土地で、信濃の本領からは遠く離れています。父子は領地を治めて軍勢を動かす立場を失い、帰国も許されない生活を送りました。

この時期の信繁を伝えるのが、親族や知人に宛てた手紙です。左京という人物に焼酎の手配を頼み、壺の口をよく閉じて紙を貼るよう求めた自筆の書状も残っています。戦の記録とは異なり、配流中も人とのつながりを保ち、日々の暮らしを送っていた信繁の姿が見えます。

慶長16年(1611年)、昌幸は赦免されないまま九度山で亡くなりました。信繁も故郷へ戻ることはできず、その後も九度山にとどまります。1600年の配流からおよそ14年後、豊臣家からの招きが、この生活を変えることになりました。

大坂へ入り、冬の陣で真田丸を守る

豊臣家と徳川家の対立で、再び軍勢を率いる

信繁が九度山で暮らす間に、家康は江戸幕府を開き、将軍職を秀忠へ引き継ぎました。一方、豊臣秀頼は父・秀吉の築いた大坂城にとどまっていました。徳川家が全国の支配を固めるなかで、かつて天下を治めた豊臣家と、どのような関係を結ぶかが問題として残っていました。

慶長19年(1614年)、秀頼が再建した京都・方広寺の鐘の銘文を徳川方が問題視します。刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字を、徳川家を呪い、豊臣家の繁栄を願うものだと解釈したのです。これをきっかけに対立が深まり、両家は戦いの準備を進めました。家康は諸大名へ出陣を命じ、豊臣方は兵糧を集め、主君を失った牢人たちを大坂城へ招きます。

信繁もその招きに応じ、子の大助とともに九度山を離れて大坂城へ入りました。豊臣方が兵力を必要としたことで、領地を失っていた信繁は再び軍勢を率いることになります。かつて秀吉に仕えた信繁は、今度はその子・秀頼を支える側で戦うことになったのです。

南側の出城で徳川軍を退ける

大坂城は堀や川に守られていましたが、南側には上町台地が続き、敵の軍勢が近づきやすい場所がありました。信繁はこの方面の守りを補うため、城の外側に防御拠点を築きます。これが真田丸です。城外で敵を食い止め、大坂城本体の守りを支える出城でした。

12月4日、前田利常らの徳川方の軍勢が真田丸を攻撃しました。信繁の部隊は砦の守りを利用して鉄砲を撃ちかけ敵を退けます。大軍を相手に野原で正面からぶつかるのでなく、防御を整えた場所へ近づく敵を攻撃したことが、真田丸での戦いの特徴でした。

ただし、真田丸での勝利によって、大坂城全体の包囲が解けたわけではありません。徳川方は城への攻撃を続け、12月には両家の講和が成立します。戦いはいったん終わりましたが、講和後に大坂城の堀は埋められ、真田丸も撤去されました。豊臣方は城を保つ一方、冬の陣で頼りにした防備を失ったのです。

大坂夏の陣の最期と、「幸村」として語られるまで

城外で戦い、家康の本陣に迫る

翌慶長20年(1615年)になると、豊臣方が城を修築し、牢人が集まっているという知らせが徳川方に伝わります。両家の緊張は解けず、再び戦いが始まりました。これが大坂夏の陣です。堀などの防備を失った豊臣方は、冬の陣と同じように城へ立てこもることが難しく、城外に出て徳川軍を迎え撃つことになります。

信繁は5月6日の道明寺方面の戦いに参加し、翌7日、天王寺・岡山方面での決戦に臨みました。茶臼山付近に陣を置いた信繁の部隊は、家康の本陣へ攻め込み、徳川方を一時混乱させます。

しかし、家康を討ち取るには至らず、豊臣方は押し寄せる軍勢を防ぎ切れませんでした。信繁も5月7日の戦いで討たれます。現在の大阪市天王寺区にある安居神社は、その最期の地と伝えられています。翌8日、秀頼と淀殿が大坂城で自害し、豊臣家は滅亡しました。

同時代の称賛と、後世に広まった「幸村」の名

信繁の戦いぶりは、戦いの直後から高く評価されていました。島津家文書に残る1615年6月11日付の文書には、「真田日本一の兵」と信繁をたたえる記述があります。大坂夏の陣での奮戦が、遠くの大名家にも伝わっていたことを示す史料です。

一方、「幸村」の名を広めたのは、江戸時代の軍記物『難波戦記』などでした。信繁本人が幸村と署名した書状は確認されておらず、生前に信繁から幸村へ改名したとする確かな根拠もありません。軍記や講談、小説のなかで活躍が語られるにつれて、実在した信繁と、物語の英雄「真田幸村」の姿が重なっていきました。

真田信繁は若いころに人質として他家へ送られ、豊臣家への出仕、九度山への配流を経て、大坂の陣に加わりました。家康を倒すことも豊臣家を救うこともできませんでしたが、冬の陣での防戦と夏の陣での猛攻は強い印象を残し、死後に語り継がれる名声のもとになったのです。

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