【日本史】親鸞とは?法然との出会い、越後流罪と浄土真宗の教えを解説

親鸞の記事のアイキャッチ 鎌倉時代

親鸞(しんらん)は、鎌倉時代に阿弥陀仏の本願による救いを説き、浄土真宗の宗祖とされる仏教者です。比叡山での修行を経て法然に学び、越後への流罪の後も、関東の人々に念仏の教えを伝えました。

親鸞が問い続けたのは、欲や怒りなどの迷いを断ち切れない人が、どのように救われるのかという問題でした。法然との出会いから関東での布教、京都での執筆と門弟への手紙までをたどり、他力本願や悪人正機の意味を、生涯と結び付けて解説します。

ひと目でわかる親鸞

親鸞は、阿弥陀仏の本願による救いを説き、浄土真宗の宗祖とされる仏教者です。比叡山での修行を経て法然に学び、越後への流罪の後は関東で念仏の教えを伝えました。京都へ戻ってからも『教行信証』の執筆や門弟への手紙を続け、その著作と人々のつながりが、後の教団へ受け継がれます。

  • 1173年に京都で生まれ、幼くして出家し、比叡山で約20年学んだと伝えられる。
  • 1201年に比叡山を下り、六角堂への参籠を経て法然に師事する。
  • 1207年の念仏弾圧で越後へ流され、非僧非俗と自らの立場を表す。
  • 赦免後は関東へ移り、常陸を中心に念仏の教えを伝える。
  • 『教行信証』を著し、阿弥陀仏の本願による救いの根拠を示す。
  • 京都へ戻った後も門弟と手紙を交わし、1256年に息子の善鸞と義絶する。
  • 弘長2年11月(現在の暦では1263年1月)に京都で没し、覚信尼や門弟が受け継ぐ。

比叡山での修行と法然との出会い

1181年、9歳で出家して比叡山に入る

親鸞は承安3年(1173年)、京都の日野に生まれました。父は藤原氏の流れをくむ日野有範と伝えられており、親鸞も貴族の家に生まれた人物でした。養和元年(1181年)、数え年9歳のときに慈円のもとで出家し、範宴と名乗ったとされています。

出家した親鸞が修行の場としたのは、天台宗の中心寺院である比叡山延暦寺でした。当時の延暦寺は多くの僧侶が集まる大寺院で、仏教の経典を学ぶだけでなく、礼拝や念仏などの修行も行われていました。親鸞は主に横川の首楞厳院で修行に励み、およそ20年間を比叡山で過ごしたと伝えられています。

しかし、長く修行を重ねても、親鸞は自分自身が迷いから抜け出す道を見いだせずにいました。仏教では、怒りや欲望などの煩悩が人間を迷わせると説かれますが、経典を学び、厳しい修行を続けても、そうした心の働きを完全になくすことは容易ではありません。

親鸞が求めていたのは、修行を十分に積むことができる人だけでなく、自分の力では迷いを離れられない人にも開かれた救いの道でした。この問いを抱えた親鸞は、やがて長年修行してきた比叡山を離れる決断をします。

1201年、六角堂での参籠を経て法然のもとへ向かう

建仁元年(1201年)、29歳となった親鸞は比叡山を下り、京都の六角堂に参籠しました。参籠とは、寺社に一定期間こもり、祈りを捧げながら過ごすことです。六角堂は聖徳太子が建立したと伝えられる寺院で、親鸞も聖徳太子を深く敬っていました。

親鸞の伝記によれば、100日間の参籠を続けるなか、95日目の明け方に聖徳太子の夢告を受けたとされています。夢告とは、夢の中で神仏から教えや知らせを受けることで、この体験が親鸞のその後の歩みに大きく関わったと伝えられています。

六角堂での参籠を経た親鸞が訪ねたのは、京都の東山吉水で念仏の教えを説いていた法然でした。法然は比叡山で学んだ後、阿弥陀仏の本願をよりどころとする専修念仏を広めており、その教えを聞くために武士や貴族、庶民などさまざまな人々が集まっていました。

親鸞は法然のもとへ通い、その教えに耳を傾けました。伝記では100日間にわたって通い続けたとされており、比叡山で長く求めても見いだせなかった救いの道を、法然の念仏の教えに見いだしたのです。

法然の専修念仏に帰依する

法然が説いた専修念仏(せんじゅねんぶつ)は、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えることを、浄土への往生のための中心とする教えです。往生とは、命を終えた後に阿弥陀仏の浄土に生まれることをいいます。

それまでの親鸞は、経典の学習や修行を重ねながら悟りへの道を求めていました。しかし法然は、修行を十分に積めない人であっても、阿弥陀仏の本願によって救われる道があると説いていました。本願とは、阿弥陀仏があらゆる人々を救うために立てた誓いのことです。

親鸞は、自分の修行の成果によって救いを得ようとするのではなく、阿弥陀仏の本願をよりどころとする法然の教えを受け入れました。後に浄土真宗の中心となる他力の思想も、この法然との出会いを出発点としています。

元久2年(1205年)には、法然の主著『選択本願念仏集』を書き写すことを許されました。この書物は、なぜ念仏を浄土往生の道として選ぶのかを経典に基づいて論じたもので、親鸞にとって法然から受け継いだ教えを学ぶための重要な著作でした。

親鸞は法然のもとで学びを深めましたが、専修念仏が広まるにつれて、延暦寺や興福寺などの有力寺院から批判が起こるようになります。やがて朝廷も念仏の活動を問題視するようになり、親鸞は法然とともに処罰されることになりました。

越後への流罪と関東での布教

常陸で人々に教えを伝える親鸞をイメージしたイラスト

1207年、承元の法難によって越後へ流される

法然の専修念仏が広まると、それまで仏教界で大きな力を持っていた延暦寺や興福寺は、念仏の教えに対する批判を強めました。法然の門弟のなかに、ほかの仏教の教えや修行を否定するような言動を取る者がいたことも、対立を深める原因となりました。

さらに、後鳥羽上皇に仕える女性たちが法然門下の念仏の集まりに参加し、出家したことが問題となります。上皇の怒りを招いたこの事件をきっかけに、朝廷は専修念仏への処罰に踏み切りました。

建永2年(1207年)、法然の門弟である住蓮や安楽らが死罪となり、法然や親鸞にも流罪が命じられます。これが承元の法難です。

親鸞は僧籍を剥奪され、越後国(現在の新潟県)へ流されました。一方の法然は四国へ配流され、京都でともに念仏を学んできた師弟は離ればなれになります。その後、法然は京都へ戻りましたが、親鸞が再び師と会うことはありませんでした。

この流罪をきっかけに、親鸞は自らを「非僧非俗(ひそうひぞく)」と表すようになります。朝廷によって僧侶の資格を奪われた一方、一般の俗人として生きるのでもなく、念仏の教えに従って歩み続けるという立場です。親鸞は「愚禿」の名も用い、僧侶という身分にとらわれず、法然から学んだ教えを大切にしていきました。

恵信尼と家庭を築き、越後で暮らす

越後へ流された親鸞は、後に妻の恵信尼とともに家庭生活を送るようになります。ただし、二人がいつ、どこで結婚したのかは明確になっておらず、京都で結婚したとする説や、越後で結ばれたとする説があります。

親鸞が妻や子どもとともに暮らしていたことは、恵信尼が晩年に娘の覚信尼へ宛てた手紙などから確認できます。恵信尼消息と呼ばれるこれらの手紙には、親鸞が比叡山を下りた頃の出来事や、家族の生活に関わる記述が残されており、その生涯を知るための貴重な史料となっています。

建暦元年(1211年)、親鸞は流罪を許されました。しかし、すぐに京都へ帰ることはなく、その後もしばらく越後で暮らしたと考えられています。

翌建暦2年(1212年)には、師の法然が京都で亡くなりました。親鸞は法然との再会を果たせませんでしたが、師から学んだ念仏の教えを受け継ぎ、やがて越後を離れて関東へ向かうことになります。

1214年頃、常陸を拠点に念仏を広める

建保2年(1214年)頃、親鸞は家族とともに関東へ向かいました。恵信尼の手紙には、親鸞が上野国の佐貫(現在の群馬県)に滞在したことが記されており、その後、常陸国(現在の茨城県)を中心に活動するようになったと考えられています。

常陸では小島や稲田に草庵を設けたと伝えられており、親鸞はこうした場所を拠点として人々に念仏の教えを伝えました。草庵とは簡素な住まいのことで、親鸞は大きな寺院を構えて住職として君臨したのではなく、人々と交流しながら布教を続けたと考えられています。

親鸞のもとには、その教えに共感する武士や地域の人々が集まりました。なかでも常陸の性信や下野の真仏らは、親鸞から学んだ念仏の教えを各地へ伝える重要な役割を担っています。

こうした門弟たちの活動によって、念仏の教えは常陸だけでなく、下野や下総などの地域にも広がっていきました。後に「二十四輩」と呼ばれる高弟たちも、関東で教えを受け継いだ人々として知られています。

親鸞は関東で人々に教えを伝える一方、法然から学んだ念仏の意味を経典に照らして考え続けました。その成果をまとめた著作が『教行信証』です。

『教行信証』と親鸞が説いた他力の教え

1224年頃、『教行信証』の執筆を進める

『教行信証』は、親鸞の教えを体系的にまとめた主著で、正式には『顕浄土真実教行証文類』といいます。阿弥陀仏の本願による救いについて、仏教の経典やインド・中国・日本の高僧たちの言葉を引用しながら、その根拠を論じたものです。

親鸞が特に重視したのは、念仏による救いが自分自身の能力や修行の成果によって決まるのではなく、阿弥陀仏の本願によって成り立つということでした。法然から学んだ教えをさらに深く考え、信心や念仏の意味を明らかにしようとしたのです。

浄土真宗では、元仁元年(1224年)を立教開宗の年としています。これは『教行信証』がこの頃に成立したと考えられていることに由来しますが、親鸞が1224年に新しい宗派を宣言したという意味ではありません。

実際、親鸞は関東での活動を終えて京都へ戻った後も、『教行信証』の内容を見直し、加筆を続けていました。現存する自筆本にも修正の跡が残されており、この著作が長い年月をかけて練り上げられたものであることが分かります。

他力本願とは阿弥陀仏の願いにまかせること

親鸞の教えを理解するうえで重要なのが、「他力本願」という言葉です。現在では他人の力を当てにするという意味で使われることもありますが、浄土真宗でいう他力とは、阿弥陀仏が人々を救おうとする本願の働きを指します。

親鸞は、どれほど修行や努力を重ねても、欲望や怒りなどの煩悩を完全になくすことのできない人間の姿に向き合いました。人は自分の善い行いだけを頼りにしても、迷いから抜け出すことができないと考えたのです。

そこで親鸞がよりどころとしたのが、迷いを抱える人々を救おうとする阿弥陀仏の本願でした。自分の力で救いに必要な条件を満たそうとするのではなく、阿弥陀仏の働きを受け入れることを重視したのです。この本願を疑いなく受け入れることが、浄土真宗でいう信心です。ただし、信心も自分の努力で強く信じようとして生み出すものではなく、阿弥陀仏の本願によって与えられるものと考えます。

それでは、念仏を称えることにはどのような意味があるのでしょうか。

親鸞は、念仏を何度も称えれば、その回数に応じて救いに近づくとは考えませんでした。阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を称えることは、救いを得るための取引ではなく、仏の恩に応える行いとして大切にされたのです。

悪人正機とは、迷いを抱える人こそ救いの対象になるという教え

親鸞の教えを表す言葉として、「悪人正機(あくにんしょうき)」も広く知られています。この教えでは、善い行いを積み重ねた人だけが救われるのではなく、煩悩を抱え、自分の力では迷いを離れることができない人こそ、阿弥陀仏の本願による救いの対象になると考えます。

ここでいう悪人とは、単に犯罪を犯した人のことではありません。自分では善い人間でありたいと願いながらも、欲望や怒りにとらわれ、思いどおりに生きることのできない人間の姿を指しています。

親鸞は、自分の善い行いを頼りにして救いを得ようとするのではなく、自らの迷いを自覚したうえで、阿弥陀仏の本願をよりどころとすることを説きました。

ただし、悪人正機は悪いことをすれば救われるという教えではありません。悪事を重ねることが救いにつながると考えるのは、親鸞の説いた本願の意味とは異なります。

こうした教えを伝える代表的な書物が『歎異抄』です。『歎異抄』は親鸞自身の著作ではなく、没後に門弟の唯円がまとめたと考えられています。そこには親鸞の言葉とともに、教えが誤って理解されることへの懸念も記されており、念仏の意味をめぐって門弟たちの間にさまざまな解釈が生まれていたことがうかがえます。

京都での晩年と受け継がれた教え

京都で著作に取り組む晩年の親鸞をイメージしたイラスト

京都へ戻り、著作と手紙で教えを伝える

親鸞は1230年代に関東を離れ、京都へ戻りました。京都に戻った親鸞は、『教行信証』の加筆を続けるとともに、仏や高僧をたたえる和讃を数多く作りました。和讃とは仏教の教えを日本語の歌にしたもので、難しい漢文の経典を読むことができない人々にも、念仏の教えを伝えるためのものでした。

また、関東に残った門弟たちとの交流も続けています。門弟から教えについて質問が届くと、親鸞は手紙を書いて答え、ときには自身の著作を送って理解を深めてもらおうとしました。

建長8年(1256年)には、下野の門弟・覚信房へ手紙を送り、信心と念仏の関係について説明しています。この手紙では、信心を離れた念仏も、念仏を離れた信心もないという考えを示しており、親鸞が晩年まで門弟の疑問に向き合っていたことが分かります。

関東で教えを広めた後も、親鸞はその地域との関係を絶つことなく、手紙や著作を通じて教えを伝え続けたのです。

1256年、息子・善鸞と義絶する

親鸞の晩年には、関東の門弟たちの間で教えの理解をめぐる対立が起こりました。その問題に深く関わったのが、息子の慈信房善鸞です。

善鸞は関東で活動していましたが、親鸞から自分だけが特別な教えを授けられたと主張し、ほかの門弟たちと対立したと伝えられています。親鸞の名を用いて教えを広める善鸞の言動は、関東の念仏者たちの間に混乱をもたらしました。

これを知った親鸞は、善鸞が語るような秘密の教えを授けたことはないと否定します。さらに建長8年(1256年)5月29日には、善鸞へ親子の縁を断つという手紙を送りました。

親鸞の死と浄土真宗の成立

1262年、京都で90歳の生涯を閉じる

弘長2年(1262年)11月28日、親鸞は京都で亡くなりました。現在の暦では1263年1月16日にあたり、親鸞の没年が1262年と1263年の両方で表記されるのは、旧暦と新暦の違いによるものです。

親鸞は晩年まで和讃や著作を残し、関東の門弟たちとも手紙を交わしていました。比叡山での修行から始まった仏道への歩みは、法然との出会い、越後への流罪、関東での布教を経て、長い年月にわたる教えの探究へとつながっていきました。

親鸞の死後、遺体は京都の鳥辺野で火葬され、遺骨は大谷に納められました。葬儀や埋葬には家族や門弟たちが関わり、親鸞の教えを受け継ぐ人々がその墓所を守っていくことになります。

覚信尼と門弟たちが大谷廟堂を建立する

親鸞の死から10年後の文永9年(1272年)、末娘の覚信尼は関東の門弟たちの協力を得て、京都の大谷にあった遺骨を吉水の北へ移し、新たな廟堂を建立しました。廟堂とは亡くなった人を供養するためのお堂で、ここには親鸞の遺骨とともに、その姿を描いた影像も安置されました。

この大谷廟堂には各地の門弟が集まり、親鸞の教えを聞き、受け継ぐ場となっていきます。覚信尼とその子孫は廟堂の管理を担い、関東の門弟たちもその維持に関わりました。

その後、親鸞の子孫である覚如らによって廟堂の寺院化が進められ、元亨元年(1321年)には「本願寺」の名が公に用いられるようになります。

現在の浄土真宗につながる教団が形づくられていったのは、親鸞が亡くなった後のことでした。親鸞自身は大規模な教団を組織したわけではありませんが、関東で教えを受け継いだ門弟たちや、京都で廟堂を守った家族の活動によって、その教えは次の世代へと広がっていきました。

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