【日本史】高倉天皇とは?母の追善と自筆の手紙、清盛の時代に担った皇位と院政

平安時代

高倉天皇(たかくらてんのう)は、後白河天皇の子として生まれ、平清盛の娘・徳子を中宮とした平安時代末期の天皇です。幼くして皇位につき、父の院政と平氏の勢力が重なる宮廷で育ちました。

清盛と後白河法皇の対立に挟まれた生涯として知られますが、母の追善のために自ら経典を書き、皇子の誕生に際して礼状を送ったことも史料に残っています。高倉本人の行動と、譲位後の短い院政をたどります。

ひと目でわかる高倉天皇

高倉天皇は1168年に即位し、1180年に子の安徳天皇へ譲位しました。後白河院政の停止後には政治の中心に置かれましたが、清盛の強い影響を受け、厳島への参詣や福原への移動を経て1181年に亡くなりました。

  • 1161年、後白河天皇と平滋子の皇子・憲仁として生まれる。
  • 1166年に皇太子となり、1168年に六条天皇から皇位を継ぐ。
  • 1171年、清盛の娘・徳子が入内し、平氏との関係が深まる。
  • 1176年に母を失い、翌年、自ら書写した経典で追善の法華八講を営む。
  • 1178年、後の安徳天皇が生まれ、安産祈願を行った守覚法親王へ礼状を書く。
  • 1179年、清盛が後白河法皇の院政を停止し、高倉の親政となる。
  • 1180年に安徳天皇へ譲位し、厳島参詣、福原への移動と帰京を経験する。
  • 1181年1月に亡くなり、短い院政を終える。

後白河天皇の皇子として生まれ、幼くして即位する

1161年、平滋子の子として生まれる

高倉天皇は応保元年(1161年)9月3日、後白河天皇と平滋子の皇子として生まれました。名は憲仁親王(のりひとしんのう)といい、父の後白河天皇はすでに皇位を退き、上皇として政治に関わっていました。

母の滋子は、平時信の娘で、後に建春門院と呼ばれる女性です。滋子の姉には平清盛の妻・時子がおり、高倉天皇は生まれたときから平氏一門と深い関係を持っていました。

当時の朝廷では、後白河上皇が政治の主導権を握ろうとする一方、二条天皇の親政を支持する公卿たちも活動していました。こうした対立のなかで、後白河上皇は滋子との間に生まれた憲仁親王を重視するようになります。

憲仁親王の誕生は平氏にとっても重要な出来事でした。滋子を通じて天皇家との結びつきを持つ清盛にとって、憲仁親王が皇位を継ぐことは、一門の政治的な地位を高める機会にもなったためです。

1168年、六条天皇から皇位を継ぐ

永万元年(1165年)、二条天皇が譲位すると、幼い六条天皇が即位しました。しかし、その後も後白河上皇と二条天皇の側近たちの対立は続き、六条天皇のもとで政治を主導する勢力は安定していませんでした。

仁安元年(1166年)、後白河上皇は憲仁親王を皇太子に立てました。憲仁親王はまだ6歳でしたが、後白河上皇と平氏の双方にとって、次の皇位継承を担う重要な存在となります。そして仁安3年(1168年)2月、六条天皇が譲位し、憲仁親王が第80代高倉天皇として即位しました。

高倉天皇の即位後、朝廷の政治を主導したのは父の後白河上皇です。上皇は院政を通じて公卿の人事や所領の問題に関わり、平清盛もその政治を支える有力者として活動していました。

高倉天皇は幼くして皇位に就いたため、即位当初から自らすべての政務を判断していたわけではありません。しかし、成長するにつれて朝廷の儀式や政治に関わるようになり、父の院政のもとで天皇としての役割を担っていきます。

1171年、平清盛の娘・徳子を迎える

承安元年(1171年)、高倉天皇は元服し、同年12月には平清盛の娘・徳子を後宮に迎えました。徳子は清盛と時子の娘で、高倉天皇とは母方のいとこにあたります。翌承安2年(1172年)、徳子は中宮となりました。中宮は天皇の后に与えられる称号であり、清盛は天皇の后の父という立場を得たことになります。

この婚姻は、後白河上皇と清盛の協力関係をさらに深めるものでした。後白河上皇にとって、清盛の軍事力や経済力は院政を進めるうえで重要でした。一方の清盛も、娘を天皇の后にすることで、皇室との結びつきを強めようとしていました。

もし徳子が皇子を産み、その皇子が次の天皇となれば、清盛は天皇の外祖父になります。これは藤原氏の摂関家が長く政治的な影響力を保つために用いてきた方法でもありました。

こうして高倉天皇の婚姻は、後白河上皇と平氏の協力を支えるとともに、次の皇位継承にも関わる重要なものとなったのです。

母・建春門院の死と追善供養

1176年、母・滋子を亡くす

安元2年(1176年)7月、高倉天皇の母である建春門院滋子が亡くなりました。滋子は後白河法皇の后妃として強い影響力を持ち、平清盛の妻・時子の妹でもあったため、後白河法皇と平氏を結びつける重要な人物でした。

高倉天皇にとっては母を失う出来事でしたが、政治的にも大きな意味がありました。滋子の死によって、後白河法皇と清盛の間をつないでいた親族関係の中心人物がいなくなったためです。実際、その後は朝廷の人事や寺社の問題をめぐって、後白河法皇と清盛の対立が深まっていきます。

一方、高倉天皇は亡くなった母を供養するため、自ら仏教の経典を書き写すことに取り組みました。当時の皇族や貴族たちには、亡くなった家族の冥福を祈るため、経典を書き写したり、僧侶を招いて法会を営んだりする習慣がありました。高倉天皇もこうした仏教の儀礼を通じて、母を弔おうとしたのです。

1177年、自筆の経典を用いて法華八講を行う

安元3年(1177年)、高倉天皇は母の一周忌にあたり、自ら書写した経典を用いて法華八講を行いました。法華八講とは、『法華経』八巻を八つに分け、僧侶が講義する法会です。通常は一日に朝と夕方の二座を開き、四日間にわたって行われます。

高倉天皇の法会は同年7月5日から8日まで営まれ、最終日は母・建春門院の一周忌にあたりました。高倉天皇はこの法会のため、前年から経典の書写を進めていました。紺色の紙に金泥で文字を書くというもので、完成までには長い時間と手間がかかりました。

当時の経典は印刷物を用意するだけで済むものではなく、紙を整え、文字を書き、巻物として仕立てる必要がありました。高倉天皇は、こうした作業の中心となる写経を自ら行っていたのです。

法会の準備には右大臣の九条兼実らも関わりました。兼実は過去の天皇が行った写経や法会の記録を調べ、経典の仕立て方や用いる道具、儀式を担当した人々への褒賞などを検討しています。この様子は兼実の日記『玉葉』に詳しく記されており、高倉天皇の追善供養が、多くの公卿や僧侶、職人たちの協力によって行われたことが分かります。

安徳天皇の誕生と自筆の手紙

1178年、徳子が言仁親王を産む

治承2年(1178年)11月12日、中宮・徳子が皇子を産みました。言仁親王(ときひとしんのう)、後の安徳天皇です。

高倉天皇にとっては待望の皇子の誕生であり、清盛にとっては娘が産んだ孫でした。言仁親王が皇位を継げば、清盛は天皇の外祖父となるため、この誕生は平氏一門にとっても大きな意味を持っていました。

徳子の出産に先立ち、朝廷では安産を願う祈祷が行われています。その一つが、仁和寺の守覚法親王による孔雀経法でした。守覚法親王は後白河法皇の皇子で、高倉天皇の異母兄にあたります。仁和寺で仏教を学び、真言密教の儀礼に深く関わっていた人物です。

孔雀経法は孔雀明王を本尊として行う密教の修法で、災いを取り除き、安産などを願う儀礼としても用いられていました。徳子が無事に皇子を産んだことを受け、高倉天皇は守覚法親王に感謝を伝えようとします。

11月13日、守覚法親王に自筆の礼状を送る

言仁親王が生まれた翌11月13日、高倉天皇は守覚法親王へ自ら手紙を書き、安産祈願への感謝を伝えました。この手紙が、現在も仁和寺に伝わる国宝「高倉天皇宸翰御消息」です。

宸翰(しんかん)とは、天皇が自ら書いた文字や文書のことです。この手紙には、高倉天皇が守覚法親王の祈祷をありがたく受け止め、皇子が無事に生まれたことを喜ぶ様子が記されています。

また、守覚法親王が同じ日に送った返書も残されており、高倉天皇の手紙とともに伝えられています。

さらに仁和寺には、当時の孔雀経法がどのように行われたのかを記した儀式の記録もあります。これらの史料を合わせることで、皇子の誕生に際して行われた祈祷と、高倉天皇が守覚法親王へ感謝を伝えた経緯を具体的に知ることができます。

高倉天皇は後白河法皇と清盛の協力関係のなかで即位した人物でしたが、こうした自筆の手紙からは、家族の出来事に自ら向き合う姿も確認できます。

同年12月、言仁親王は皇太子に立てられました。皇子の誕生は家庭の慶事であると同時に、清盛の外孫が皇位を継ぐ道を開く政治的な出来事でもあったのです。

後白河法皇と平清盛の対立に直面する

1179年、平清盛が後白河法皇を幽閉する

高倉天皇と徳子の間に皇子が生まれた後も、父の後白河法皇と平清盛の対立は収まりませんでした。両者は長く協力して朝廷の政治を進めてきましたが、平氏一門が多くの官職や所領を持つようになると、その扱いをめぐって利害が対立するようになります。

治承3年(1179年)には、清盛の娘・盛子と嫡男・重盛が相次いで亡くなりました。盛子は摂関家に関わる所領を管理する立場にありましたが、死後、その所領は後白河法皇によって院の管理下に置かれます。また、重盛の死後には、その家が持っていた越前国の知行権も取り上げられました。

清盛にとって、これらの決定は平氏一門の経済的な基盤と政治上の地位を脅かすものでした。

同年11月、清盛は軍勢を率いて京都へ入り、後白河法皇に近い公卿たちを次々と解任しました。さらに法皇を鳥羽殿へ幽閉し、それまで続いてきた院政を停止させます。これが「治承三年の政変」です。

高倉天皇は、父の後白河法皇が政治から排除される一方、中宮・徳子の父である清盛が朝廷の主導権を握るという状況に置かれました。

父の院政が停止され、親政の形を取る

後白河法皇が幽閉されると、朝廷では高倉天皇自身が政治を行う親政の形が取られるようになりました。高倉天皇はすでに成人しており、天皇として儀式や政務に関わる経験も積んでいました。しかし、この政治体制への転換は、清盛が軍勢を率いて法皇を排除したことによって実現したものでした。

そのため、高倉天皇が親政を行う形になったからといって、清盛の意向から独立して朝廷の政治を進められたわけではありません。

清盛は関白や公卿の人事を大きく入れ替え、平氏一門に近い人々を朝廷の要職へ進めていました。

高倉天皇にとって、天皇として政治を担うことは重要でしたが、その周囲では父の後白河法皇と清盛の対立が続いていました。父を幽閉した清盛の政治体制のもとで、自らの立場を保たなければならなくなったのです。

安徳天皇への譲位と厳島参詣

1180年、安徳天皇へ譲位する

治承4年(1180年)2月21日、高倉天皇は皇太子の言仁親王へ皇位を譲りました。言仁親王は3歳で即位し、第81代安徳天皇となります。

高倉天皇は上皇となり、今度は幼い天皇の父として院政を行う立場となりました。しかし、当時は清盛が朝廷で強い影響力を持っており、高倉上皇が自由に政治を主導できたわけではありません。

清盛にとって、この譲位は大きな成果でした。娘の徳子が産んだ皇子が天皇となったことで、清盛は天皇の外祖父となり、皇位継承を通じて平氏一門の地位をさらに高めたのです。一方、高倉上皇は20歳で皇位を退き、父の後白河法皇が幽閉されたままの朝廷で、新たな院政を始めることになりました。

しかし、その院政が安定する前に、平氏に反発する勢力が各地で動き始めます。

1180年3月、厳島神社へ参詣する

高倉上皇は譲位した翌月、安芸国にある厳島神社への参詣を行いました。厳島神社は現在の広島県廿日市市宮島町にあり、平清盛が厚く信仰していた神社です。清盛は安芸守を務めた頃から厳島神社との関係を深め、社殿の造営や『平家納経』の奉納などを進めてきました。

高倉上皇は治承4年(1180年)3月19日に京都を出発し、陸路と海路を利用して厳島へ向かいました。そして参詣を終え、4月9日に京都へ戻っています。

この旅には源通親らの公卿たちが同行しました。

高倉上皇が厳島神社を訪れた背景には、清盛との関係がありました。上皇となって最初の社参先として平氏と関係の深い厳島神社が選ばれたことは、新たな院政が清盛の強い影響下にあったことを示しています。

一方、参詣では高倉上皇自身が書写した金泥の経典も供養されました。母・建春門院の追善供養で自ら写経したのと同じように、今回も自筆の経典を仏神へ捧げる儀式が行われたのです。高倉上皇にとって厳島参詣は、清盛との政治的な関係を示すだけでなく、自らの仏教信仰を表す旅でもありました。

『高倉院厳島御幸記』に残された旅の記録

高倉上皇の厳島参詣は、同行した源通親の『高倉院厳島御幸記』に詳しく記されています。この書物は、京都を出発して厳島神社へ参詣し、再び京都へ戻るまでの道中を記した紀行文です。

上皇が訪れた場所や旅の様子、同行した人々の活動などが記されており、平安時代後期の皇族が遠方へ参詣する様子を知るための貴重な史料となっています。

現在、東京国立博物館には、鎌倉時代に書き写された『厳島御幸記並高倉院昇霞記』が所蔵されています。高倉上皇の厳島参詣と、翌年の死について記した二つの作品をまとめたもので、重要文化財に指定されています。

厳島参詣は後に『平家物語』にも描かれていますが、物語では高倉上皇の心情や清盛との関係が印象的に表現されています。

福原遷都と高倉上皇の最期

1180年、福原へ移される

厳島参詣から戻った高倉上皇でしたが、その後、朝廷では大きな混乱が起こりました。治承4年(1180年)5月、後白河法皇の皇子・以仁王が源頼政とともに挙兵します。以仁王は平氏の政治に反発し、各地の源氏へ平氏追討を呼びかけました。挙兵は平氏方によって鎮圧されましたが、反平氏の動きはその後も各地へ広がっていきます。

同年6月、清盛は安徳天皇や高倉上皇、後白河法皇らを伴い、摂津国福原へ移りました。これが福原遷都です。福原は現在の神戸市にあたり、清盛が長く拠点としていた場所でした。近くには大輪田泊という港もあり、清盛は日宋貿易を進めるうえでも、この地域を重視していました。

しかし、福原には朝廷の政治を行うための建物や施設が十分に整っておらず、移住した公卿たちの間でも不満が高まりました。

さらに東国では源頼朝が挙兵し、平氏に対抗する勢力が拡大していきます。清盛は福原に新たな都を定着させることができず、同年11月には京都への還都を決めました。

1181年、21歳で生涯を終える

治承5年(1181年)、高倉上皇は亡くなりました。

高倉上皇は仁安3年(1168年)に幼くして即位し、その治世では父の後白河法皇が院政を行っていました。しかし、平清盛が朝廷で勢力を広げるにつれて両者の対立が深まり、1179年には清盛によって後白河法皇が幽閉されます。

高倉天皇はその翌年に安徳天皇へ譲位し、上皇となりましたが、清盛の影響力が強い政治体制のなかで、独自の院政を長く続けることはできませんでした。その遺体は京都東山の清閑寺に葬られ、現在も後清閑寺陵として伝わっています。

高倉上皇の死後、後白河法皇は再び院政を進めるようになります。また、同年閏2月には清盛も亡くなり、平氏一門を取り巻く政治情勢は大きく変化していきました。

高倉天皇は、後白河法皇と平清盛の協力と対立のなかで皇位を継ぎ、幼い安徳天皇へ譲位した天皇です。 短い生涯でしたが、母の追善供養や皇子誕生を祝う自筆の手紙、厳島参詣など、宮廷の儀式や仏教信仰に自ら関わった記録を残しています。

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