戦国時代は、各地の戦国大名が勢力を競い合った時代として知られています。しかしその一方で、室町幕府以来の名門家が急速に没落していった時代でもありました。斯波義銀(しば よしかね)は、まさにそうした激動の中を生きた人物です。
斯波氏は足利一門の名門であり、室町幕府では三管領家の一つとして大きな権威を誇っていました。その宗家である武衛家の最後の当主となったのが斯波義銀です。尾張守護としての格式を持ちながらも、実権を失った守護家として織田氏の台頭に翻弄され、最終的には尾張を追放されることになりました。本記事では、そんな斯波義銀について詳しく解説します!
Contents
出自と武衛家の立場
室町幕府を支えた斯波氏
斯波義銀が生まれた斯波氏は、室町幕府において極めて高い家格を持つ名門でした。足利氏の一門であり、細川氏・畠山氏と並ぶ「三管領家」の一つとして、幕府政治の中枢を担っていた家系です。特に斯波氏宗家は「武衛家」と呼ばれ、代々左兵衛督または左兵衛佐に任じられる伝統を持っていました。
室町時代には越前・尾張・遠江など複数国の守護を兼ねるほどの勢力を誇りましたが、応仁の乱以降になると勢力は次第に衰退していきます。戦国時代に入る頃には、守護としての名目は保持していたものの、実際の軍事力や領国支配力は守護代や国人層に奪われていました。
それでも斯波氏の家格そのものは依然として重視されていました。義銀が後に吉良氏と席次争いを起こした背景にも、足利一門同士としての格式意識が存在していました。戦国大名が武力で勢力を広げる時代になっても、名門としての権威は外交や政治の場面で大きな意味を持ち続けていたのです。
尾張守護として育った義銀
斯波義銀は、1540年に尾張守護・斯波義統の嫡男として生まれました。当時の尾張では、守護である斯波氏よりも、守護代である織田氏の力が強くなっていました。特に尾張下四郡を支配していた織田信友は、守護権力を実質的に支配する存在となっていたのです。
義銀の父・義統は形式上は尾張守護でしたが、実際には織田信友の影響下に置かれていました。この状況は、戦国時代における守護大名衰退の典型例でもあります。本来であれば守護が国を統治する立場でしたが、実権は守護代や家臣層に移っていたのです。義銀は、そうした不安定な環境の中で成長することとなります。
義統の死と織田信長への接近
織田信友による義統暗殺事件
天文23年(1554年)、義銀の人生を大きく変える事件が発生します。父である斯波義統が、守護代・織田信友とその家臣である坂井大膳によって殺害されたのです。この時、義銀は手勢を率いて川狩りに出ており、その隙を突かれる形となりました。
この事件は単なる家中の争いではなく、戦国時代における守護権威崩壊を象徴する出来事でした。本来、守護代は守護を補佐する立場でしたが、すでに尾張では織田氏が実権を掌握しており、守護を排除することすら可能になっていたのです。
父を失った義銀は、織田信友に対抗するため、当時勢力を伸ばしていた織田信長のもとへ逃れました。信長は以前から斯波氏と良好な関係を維持しており、義銀を保護する立場を取ります。やがて信長は信友を討ち、尾張支配を強化していきました。
信長の庇護下に入った義銀
父の死後、義銀は織田信長の庇護下に入りました。信長にとって斯波氏の存在は、尾張統治の正統性を示す上で重要な意味を持っていました。そのため義銀は形式上の尾張守護として扱われ、名目的には尾張国の最高権威として位置付けられました。
当時の戦国大名は、単に軍事力だけで支配を進めていたわけではありません。名門守護家との関係を利用し、自らの政権に正統性を与えることが重要でした。信長が義銀を保護した背景には、そうした政治的意図も存在していたと考えられます。
義銀自身も、信長の力を利用して斯波氏再興を目指していました。実際、義銀は各地の足利一門や守護家との外交役を担うようになります。三河の吉良氏や駿河の今川氏との関係構築は、まさにその一例でした。
しかしこの関係は、あくまで相互利用の側面を持つものでした。信長は尾張支配のために義銀を必要とし、義銀は斯波氏の権威回復のために信長を必要としていたのです。この微妙な均衡は、後に大きく崩れることになります。
吉良氏との対立と信長追放計画
吉良義昭との席次争い
義銀の名門意識を象徴する出来事として知られているのが、吉良義昭との席次争いです。信長の主導によって、斯波氏と吉良氏の間で同盟が進められた際、両者は石橋忠義の戸田館で対面することになりました。しかし、ここで問題となったのが席次でした。斯波氏も吉良氏も足利一門の名門であり、双方とも高い家格を誇っていました。そのため、どちらが上座につくべきかで譲らなかったのです。
『信長公記』によれば、両軍は約束の地である上野原に到着した後、一町ほど距離を置いて対陣しました。義銀と吉良義昭は、それぞれ陣前に床几を据えながら、一歩も譲らなかったとされています。最終的には互いに十歩ほど前に出て顔を合わせただけで、正式な対面は成立しませんでした。
この出来事は、戦国時代においても家格意識が極めて重要だったことを示しています。軍事的実力では信長のような新興勢力が台頭していた一方で、旧来の名門たちは依然として格式を重視していました。
信長追放を企てた義銀
当初は信長と協力関係にあった義銀でしたが、やがてその関係は悪化していきます。義銀は斯波氏の権勢回復を目指し、吉良義昭や石橋忠義、さらに今川氏や尾張河内地方の国人・服部友貞らと結んで、信長追放を計画するようになりました。
この計画では、今川方の軍勢を海上から尾張へ引き入れる構想が存在していました。義銀としては、信長の勢力拡大を阻止し、再び守護としての権威を取り戻そうとしていたのです。
しかし、この密議は信長側に察知されます。結果として義銀は尾張を追放され、斯波武衛家は事実上滅亡しました。室町幕府以来続いてきた名門守護家が、戦国大名・織田信長によって政治的地位を失った瞬間でした。
追放後と津川義近への改名
畠山高政の庇護下で過ごした時期
尾張を追放された義銀は、同じ三管領家の一つである畠山氏を頼り、河内国の畠山高政の庇護下に入りました。この頃の義銀については、一説にキリシタンになったとも伝えられています。しかし近年では、この話は石橋忠義の経歴と混同された可能性が高いと考えられています。石橋忠義は後に松永久秀の庇護を受け、洗礼名サンチョを持つキリシタンとなっていたためです。
義銀はその後、信長と和解しました。この和解に際して、斯波氏を称することを遠慮し、「津川義近」と改名しています。これは、かつて追放された旧守護家としての立場を踏まえた対応でもありました。
もっとも、改名後も義銀が名門出身者として扱われたことに変わりはありません。元亀2年(1571年)には祖父・義敦の三回忌法要を営んでおり、尾張との関係も維持されていました。完全に歴史から消え去ったわけではなく、なお一定の社会的地位を保持していたのです。
織田家との姻戚関係
信長との和解後、義銀は織田家との関係を深めていきました。娘の一人を、信長の弟・織田信包の長男へ嫁がせるなど、婚姻関係を通じて結び付きが強化されています。
これは、信長側にとっても重要な意味を持っていました。斯波氏は尾張守護家として長い歴史を持つ名門であり、その血統を織田家と結び付けることは政治的価値が高かったのです。義銀にとっても、織田家との姻戚化は生き残りのための現実的な選択でした。もはや独自に勢力を再建することは困難であり、強大な織田政権の内部で名門としての立場を保つ必要があったのです。
本能寺の変後には、弟の津川義冬が織田信雄の家老となっていました。義銀自身も信雄のもとにいたとされ、小牧・長久手の戦いでは松ヶ島城を守備しています。その後、羽柴秀吉に降伏し、蒲生氏郷の配下として行動しました。戦国の激しい政争の中で、義銀は立場を変えながら生き延びていったのです。
豊臣政権下での復権と失脚
御伽衆として復活した義銀
豊臣秀吉政権下において、義銀は再び高い待遇を受けるようになります。足利義昭や山名豊国らとともに「御伽衆」として秀吉に仕え、天正13年(1585年)には公家成も認められました。これは朝廷において公家的待遇を受ける資格を意味しており、旧守護家当主として極めて厚遇されていたことが分かります。
秀吉が義銀を重用した背景には、政治的事情がありました。秀吉は織田信長の死後、信長の子である信雄・信孝兄弟と対立しています。そのため、かつて信長に追放された旧尾張守護家を保護することで、自らの行動を正当化する意図があったと考えられています。
また、義銀は外交面でも重要な役割を担いました。斯波氏の分家は東北地方にも広がっており、大崎氏や最上氏などとの血縁関係が存在していました。そのため義銀は、伊達政宗ら東国大名との折衝役としても利用されたのです。
北条氏直赦免嘆願による失脚
義銀は秀吉政権下で一定の影響力を持っていましたが、やがて失脚することになります。その契機となったのが、小田原征伐後の北条氏直の赦免問題でした。
小田原征伐によって降伏した北条氏直に対し、義銀は秀吉へ赦免を嘆願しました。しかし秀吉はこれを「増長」と受け取り、義銀の行動に激怒したとされています。結果として義銀は政治的地位を失い、政権中枢から遠ざけられました。
もっとも、結果的には氏直は切腹を免れており、義銀の嘆願が全く無意味だったわけではありません。ただし、豊臣政権下では最終的な権威は秀吉個人に集中しており、名門出身者であっても独自判断による政治行動は許されなかったのです。
晩年と斯波武衛家の終焉
聚楽第落書き事件への関与
天正17年(1589年)、義銀は「聚楽第落書き事件」に関連して一時捕縛されたと伝えられています。聚楽第とは、豊臣秀吉が京都に築いた大規模な邸宅兼政庁であり、天下人となった秀吉の権威を象徴する存在でした。
この聚楽第の周辺で、秀吉や政権を批判する内容の落書きが見つかったことから事件化したのが、聚楽第落書き事件です。戦国時代において落書きは単なる悪戯ではなく、政治的意図を持つ誹謗や風説として扱われる場合がありました。特に聚楽第は秀吉政権の威信を示す施設だったため、落書きは政権への挑発と受け止められたのです。そのため、関係者の捜査や処分が行われる事態となりました。
この事件では、細川昭元や尾藤知宣らとともに義銀も関与を疑われたとされています。ただし近年では、実際に拘束されたのは義銀本人ではなく、弟の蜂屋謙入だったとする説もあります。蜂屋謙入にはこの事件前後に追放された形跡が存在する一方、義銀自身はその後も引き続き秀吉に仕えていたためです。
死去と後世への伝承
斯波義銀は慶長5年(1600年)に死去しました。法名は「衛陽院殿龐山蘊公大居士」と伝わっています。この年は関ヶ原の戦いが起きた年でもあり、日本史が戦国時代から江戸時代へ大きく転換する節目の時代でした。
義銀の死は、室町幕府以来続いてきた斯波武衛家宗家の歴史的終焉を意味していました。かつて三管領家として幕府政治を支えた斯波氏は、戦国時代を経て完全に歴史の表舞台から退くことになります。
しかし、義銀に関する伝承や遺物は後世にも残されました。万治元年(1658年)の時点では、京都の妙心寺大嶺院に位牌や鷹狩姿の画像が存在していたと伝えられています。現在は同寺の大龍院に所蔵されているとされ、戦国名門の記憶を今に伝えています。


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