山名氏清(やまなうじきよ)は、南北朝時代から室町時代にかけて丹波・和泉などの守護を務めた武将です。父・山名時氏が築いた勢力を受け継ぎ、幕府の命令で南朝方と戦ったほか、一族の山名時熙らを討って但馬にも進出しました。
ところが、一族内の争いで地位を高めた氏清は、やがて将軍・足利義満と対立します。1391年の明徳の乱では甥の満幸とともに京都へ攻め上りましたが、内野の戦いで敗れて討死しました。幕府の有力な守護から反乱の中心人物へと立場を変えた背景には、山名家内部の対立と、守護の権限をめぐる将軍との緊張がありました。
ひと目でわかる山名氏清
氏清は、山名一族の広大な勢力を一人で所有していた人物ではなく、丹波などを担当する有力な一員でした。時熙らの討伐を機に勢力を伸ばしましたが、その後は満幸とともに幕府へ反旗を翻します。
- 1344年生まれで、山名時氏の子。
- 丹波・和泉などの守護を務め、京都周辺で活動。
- 幕府の命令による南朝方への軍事行動に参加。
- 1390年、満幸とともに山名時熙・氏之を討伐。
- 時熙を退けて但馬守護となり、一族内で勢力を拡大。
- 1391年、義満と対立し、満幸とともに京都へ進軍。
- 明徳2年12月の内野合戦で討死。
- 敗走した満幸はその後も抵抗し、氏清とは異なる最期。
山名一族の中で台頭した氏清
父・時氏のもとから丹波守護へ
山名氏清は1344年、山名時氏の子として生まれました。父は伯耆などを基盤に勢力を広げ、南朝方に立って幕府と戦った時期を経て、1360年代に幕府へ帰参した武将です。父の帰参によって、山名一族は各地の守護として幕府の政治秩序に組み込まれ、氏清もその一員として京都や畿内で活動するようになりました。
守護は、幕府から国ごとに任じられ、軍勢を動員したり、幕府の命令を現地で実行したりする役職です。山名氏は一族の複数の人物がそれぞれ守護職を持つことで勢力を広げました。そのため、一族全体としては大きな力を持ちながら、どの家がどの国を支配するかをめぐって競合することもありました。
氏清が受け継いだ重要な地位が丹波守護です。丹波は京都の西に接し、山陰から都へ入る経路にあたるため、その軍勢は京都の政治に直接影響を及ぼしました。
1378年、紀伊・和泉の南朝勢力を攻める
永和4年(1378年)、兄の山名義理らとともに紀伊・和泉方面へ出陣し、南朝方の武士たちと戦いました。当時は京都の北朝と吉野を中心とする南朝の対立が続いており、紀伊や和泉には南朝を支持する勢力が残っていました。室町幕府はこうした勢力を抑えるために山名一族を派遣し、氏清も和泉守護に任じられています。
翌康暦元年(1379年)1月、氏清は義理や山名時義とともに、南朝方が守る和泉の土丸城を攻撃しました。山名軍は城の周囲に設けられた防御拠点を攻略し、翌日には土丸城を落としたと伝えられています。さらに2月には紀伊へ進軍し、有田郡の藤並方面に攻め込んで湯浅城を攻略するなど、南朝方の拠点を次々と奪いました。
氏清はその後も和泉方面で戦いを続け、康暦2年(1380年)には南朝方の橋本正督らを討ち取っています。紀伊・和泉での軍事活動を通じて、氏清は幕府の南朝討伐を担う武将として活躍し、丹波に加えて和泉でも守護としての地位を固めていきました。
山城守護となり、寺社領の保護にも関わる
至徳2年(1385年)、氏清は京都を含む山城国の守護に任じられました。山城には東寺をはじめ多くの寺社が領地を持っており、守護は軍事的な役割だけでなく、こうした寺社領をめぐる問題にも対応する必要がありました。
同年12月、氏清のもとでは、東寺領の上久世荘と下久世荘に対して、軍勢による乱暴や略奪を禁じる命令が出されています。当時は軍勢が移動する際に、村々で物資を奪ったり、住民に負担を強いたりすることがありました。氏清は寺社領でこうした行為が起こらないよう命令を出し、領地の保護を図ったのです。
さらに明徳元年にあたる1390年の文書には、東寺八幡宮領の久世上下荘に対する軍役の免除に関する記録が残されています。この文書は氏清の関係者である本庄資行が発給したもので、東寺八幡宮の領地については、一般の土地とは異なる扱いを認めることが示されています。
氏清は南朝方との戦いでは軍勢を率いて城を攻略する一方、山城守護としては寺社領での乱暴を禁じ、軍役の負担についても判断を下していました。こうした命令からは、氏清が京都周辺の軍事だけでなく、守護として土地や寺社の支配にも関わっていたことが分かります。
一族の討伐によって広がった支配
時熙・氏之を攻めて但馬を得る
1389年に山名時義が亡くなると、その後継者である山名時熙や、時義の養子となっていた山名氏之をめぐって一族内の対立が深まりました。翌1390年、足利義満は氏清と満幸に両者の討伐を命じます。氏清にとっては、幕府の命令を受けて一族の競争相手を攻め、その領国へ勢力を広げる機会となりました。
氏清は丹波から但馬へ進み、時熙を退去させて但馬守護の地位を得ました。明徳元年9月には、出石神社へ禁止事項を示す「禁制」を出しています。軍勢を進めて敵を退けるだけでなく、守護として地域に命令を伝え、新たな支配を始めていたことが分かります。一方、満幸も氏之の支配地へ進出して地位を高めました。
満幸の処分と義満への反発
1391年、時熙らが義満との関係を修復する動きが進む一方、満幸は出雲にある上皇の領地を侵害したことを問題にされ、守護職を解かれて京都を退きました。守護に任じられた国にも、寺社や朝廷側の人々が権利を持つ土地があり、守護が自由に取り込んでよいわけではなかったのです。
氏清にとって満幸は甥であるとともに娘の夫でもあり、前年の討伐をともに進めた相手です。その満幸の処分は、氏清自身の立場にも関わる出来事でした。
軍記物語『明徳記』は、時熙らの赦免を知って氏清と満幸が将軍への不信を強め、満幸が氏清に挙兵を勧めたと描いています。こうした対立の中で、氏清は前年の討伐をともに行った満幸に加わり、幕府へ武力で対抗することになります。京都へ攻め上るため、南朝方とも連携を図ります。
明徳の乱と内野での討死
京都へ進軍した氏清と幕府軍
明徳2年12月、氏清は和泉方面から兵を進め、八幡を経て京都への攻撃に向かいました。満幸も丹波方面から入京を目指します。これが明徳の乱です。
幕府側には細川・畠山・赤松・大内・一色などの諸勢力が集まり、京都の内野付近に布陣しました。内野は、かつて平安宮が置かれていた場所で、宮殿が失われた後にそう呼ばれるようになった地域です。氏清らは、そこに集まった幕府軍と戦うことになりました。氏清は強大な一族を背景としていても、実際の戦場では分裂した山名勢を率い、多くの守護が加わる幕府軍と向き合っていました。
『明徳記』は氏清と満幸の軍が別々に進み、幕府側の諸将と各所で衝突した様子を伝えています。細かな兵数は軍記の記述として扱う必要がありますが、氏清が狙った京都への進撃に対し、義満側が迎撃の態勢を整えていたことは確かです。氏清は都への突入を果たしたものの、将軍側の陣を崩しきれませんでした。
氏清の死と山名氏の領国再編
明徳2年12月晦日、氏清は京都の内野・二条大宮付近で幕府軍と戦い、討死しました。この旧暦の日付は、西暦の暦に換算すると1392年初めにあたりますが、日本史では明徳2年の出来事として一般に「1391年の明徳の乱」と表記します。京都での決戦は短期間で決着し、氏清がさらに領国へ戻って戦う機会はありませんでした。
一方、満幸は戦場を脱出し、その後も幕府に抵抗しました。氏清と満幸がそろってこの日に討死したわけではありません。
戦後、氏清らの守護職は幕府方の諸将へ配分され、丹波は細川頼之、和泉は大内義弘の支配へ移り、但馬には時熙が復帰しました。氏清が一族との戦いで得た但馬を、かつて追い出した時熙が取り戻したことになります。山名一族そのものは存続しましたが、氏清・満幸を中心とする勢力はここで崩れました。


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