山名時氏(やまなときうじ)は、南北朝の内乱で足利方と南朝方の双方に立ち、伯耆・因幡を中心に山名氏の勢力を築いた武将です。足利尊氏に従って守護の地位を得ましたが、幕府内部の争いである観応の擾乱では尊氏の弟・足利直義を支持し、その後は南朝側から京都へ攻め込みました。
京都を長く占領することはできなかったものの、時氏は山陰での支配を維持し、美作などにも進出しました。やがて領国の確保を条件として幕府へ帰参し、子どもたちも各国の守護となります。時氏の生涯は、都で戦う軍事力を地方の支配につなげ、有力な守護大名の家へと成長した過程でもありました。
ひと目でわかる山名時氏
時氏は、足利氏の内紛で所属する陣営を変えながらも、伯耆を中心とする軍勢と領国を手放しませんでした。幕府との和解によって、その支配を守護の地位として認めさせたことが大きな転機です。
- 南北朝時代に山名氏の勢力拡大を進めた武将。
- 足利尊氏に従い、伯耆などの守護として活動した。
- 観応の擾乱では足利直義方に参加。
- 南朝側に立ち、1353年・1355年に京都へ進軍した。
- 伯耆を基盤として因幡・美作などへ勢力を拡大。
- 1363年から1364年にかけて幕府へ帰参した。
- 師義・義理・氏冬・氏清・時義らの子が各地で活動。
- 1371年に死去し、山陰を中心とする支配を次代へ継承する。
足利方の武将として山陰へ
伯耆を基盤に守護として台頭する
時氏が活動した南北朝時代は、京都の北朝と、吉野を中心とする南朝という二つの朝廷が並び立った時代です。足利尊氏は北朝を支えて幕府を開きましたが、南朝側も各地の武士と結んで抵抗を続けました。時氏はこの争いの中で足利方に加わり、山陰へ勢力を広げていきます。
山名氏は上野国山名郷に由来する武家で、新田氏と同じ系統に属します。しかし時氏は、南北朝の争いで新田義貞と行動をともにするのではなく、足利尊氏の側に立ちました。尊氏が京都の政権を固めていくなか、時氏もその軍事活動に加わり、西国における地位を高めていきます。
時氏の支配の中心となったのは、現在の鳥取県中西部にあたる伯耆でした。後醍醐天皇を支えた名和長年が亡くなった後、時氏は因幡・伯耆の平定を進め、守護として活動します。守護は、幕府から国ごとに任じられ、軍勢の動員や幕府の命令の実行などを担う立場です。時氏は伯耆の武士を率いて戦うことで、この地域に勢力を築いていきました。
その後、丹波や若狭の守護職にも関わるなど、活動範囲は山陰にとどまらず、京都を取り巻く地域へ広がりました。こうした地位は足利政権のもとで得たものですが、その幕府自体がやがて大きく分裂します。
観応の擾乱で直義を支持する
1350年ごろから、足利尊氏・高師直の側と、尊氏の弟・足利直義の側が対立し、観応の擾乱と呼ばれる内紛が始まりました。時氏は直義を支持し、尊氏側と戦います。これは南朝と北朝の争いとは別に、幕府を築いた足利方の内部で起きた対立でした。時氏は、それまで従っていた将軍尊氏と同じ陣営にとどまらず、直義側の武将として戦うことになったのです。
1351年には直義方のもとで出雲守護として命令を実行していた時氏ですが、同年中に幕府の文書は出雲で佐々木高氏、丹波で仁木頼章を命令の宛先とするようになります。この文書の宛先の変化からは、尊氏側が時氏に代わる人物へ命令を伝え、現地を支配させようとしていたことが分かります。直義が京都を離れ、尊氏側が巻き返すにつれて、時氏は幕府から認められた権限を失っていきました。
直義の死後には将軍側と協調する局面もありましたが、時氏父子は再び幕府から離れ、山陰を足場として南朝方に加わりました。
南朝方として京都を攻める
1353年の入京と伯耆への撤退
1353年、時氏は子の師義らと山陰の軍勢を率い、南朝方の諸軍とともに京都へ進みました。山陰から丹波を経て攻め上る山名勢は、京都の西側から幕府軍に圧力をかけます。将軍尊氏の子・足利義詮は京都を維持できず退き、山名父子は一時的に都を押さえることに成功しました。
しかし、入京することと占領を続けることは別の問題でした。義詮は地方の軍勢を集めて反撃の準備を進め、山名側も兵を京都にとどめ続ける必要に迫られます。時氏父子は同年のうちに伯耆へ引き揚げ、都の支配は長続きしませんでした。
『太平記』は、この間の戦闘で師義や山名方の家臣がそれぞれ軍勢を率いた様子を描いています。時氏の軍事力は本人の率いる兵だけではなく、師義や家臣たちが動かす軍勢にも支えられていました。京都から退いても、その軍事的なつながりと伯耆の支配が残ったことが、次の出兵につながります。
足利直冬と結んだ再度の京都攻撃
時氏は続いて、尊氏の子でありながら尊氏と対立し、直義の養子となっていた足利直冬を支持しました。直冬を奉じる勢力には中国地方や北陸の武将も加わり、時氏はこの連合と南朝方の協力によって、再び幕府を京都から追い出そうとします。1355年には直冬らとともに入京し、山名父子は淀・鳥羽方面などに陣を構えました。
これに対し尊氏・義詮の軍は反撃し、京都周辺で激しい戦いが続きます。神南の合戦では山名勢も戦いましたが、義詮の軍を破って都を確保するには至りませんでした。『太平記』には、この戦いで師義が負傷して退き、戦死した兵を弔わせたことも記されています。父とともに戦った師義も、自ら軍勢を率いて幕府軍に対抗していました。
山名側は再び京都から撤退しましたが、時氏が伯耆を失ったわけではなく、以後も山陰の軍勢を動かして幕府側と戦い続けました。
地方での勢力拡大と幕府帰参
美作へ進出し、領国を広げる
京都での戦いが終わった後も、時氏は西国での軍事活動を続けました。1361年には師義らと美作へ進出し、幕府側の赤松氏などと争います。美作は伯耆の南に位置し、山陰から山陽へ抜ける道にあたるため、この地域の支配は山名勢の行動範囲を広げることにつながりました。
翌1362年にも時氏は美作を足場に諸方面へ軍を送り、師義らは備前・備中に進出しました。ただし、各地の武士がすべて一様に従ったわけではありません。山名方に加わる者がいる一方、幕府方の城に立て籠もる者もあり、山名勢の進路を赤松氏らが阻む場面もありました。
領国の安堵を条件に幕府へ戻る
時氏と幕府の和解は、一般に1363年もしくは1364年の帰順として説明されます。時氏は南朝側から幕府側へ戻り、以後は幕府から守護職を認められた武将として活動しました。
この和解を理解するうえで重要なのが、領国の「安堵」です。安堵とは、それまでの土地や権利の支配を認めることをいいます。時氏父子は京都で敗れても山陰での勢力を保っていたため、幕府との関係を修復する際には、その支配をどのように扱うかが問題となりました。
和解の中心となったのは、時氏父子が実際に勢力を及ぼしていた領国を幕府が認めることでした。誰が最初に交渉を持ちかけたかは『太平記』と後世の家譜で説明が異なりますが、時氏が軍勢を引き渡して無条件に降伏したという話ではありません。
幕府にとっては有力な敵を味方に変えることができ、時氏にとっては戦って確保した地域で、幕府の認める守護として活動できるという利点がありました。以後、伯耆・因幡・丹波・丹後・美作を中心に、時氏と子どもたちが守護として活動していきます。
帰参後の活動と最期
将軍家を支える立場へ戻る
帰参後の時氏は、京都でも幕府を支える立場へ戻りました。義詮の死後、1368年に若い足利義満が元服した際には、時氏と子どもたちが剣・鞍・馬などを献上しています。かつて京都へ攻め込んだ山名父子が、新たな将軍の儀礼に参加する側になったのです。同年には、延暦寺の衆徒が日吉社の神輿を動かした際の警備にも加わりました。
領国では、時氏と結び付いた子どもたちがそれぞれの地域を担いました。師義は丹後や伯耆、義理は美作、氏冬は因幡、氏清は丹波というように、一族が複数の国で地位を持つ形が整っていきます。
時氏は時宗への信仰でも知られ、因幡・伯耆の時衆の活動を支えました。時宗は一遍に始まる仏教の宗派で、時衆はその信仰に結び付いた人々を指します。
1371年の死と子どもたちへの継承
時氏は1371年(応安4年/建徳2年)に亡くなりました。晩年には師義への継承が進められ、ほかの子どもたちもすでに各地で軍事や統治に携わっていました。時氏が亡くなった時点で、山名氏の勢力は当主一人の活動だけに頼るものではなく、複数の守護家と家臣団によって支えられる形になっていたのです。
後世の山名氏は十一か国の守護職を持ち、「六分一殿」と呼ばれるまでになります。時氏の時代から時氏の子どもたちへ継承されて行くにつれて、守護職の獲得や一族内の勢力変化が行われることによって勢力を拡大していきました。
時氏自身の大きな功績は、足利政権の内紛に巻き込まれながら伯耆を中心とする勢力を保ち、幕府との和解を通じてそれを次代へ残したことにあります。都への二度の進軍だけでなく、撤退後も領国で戦い続けたことが、山名氏の発展につながりました。


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