【日本史】土岐頼遠とは?青野原で奮戦した美濃守護と光厳上皇への狼藉

南北朝時代

土岐頼遠(とき よりとお)は、南北朝時代の初めに足利尊氏・足利直義兄弟を支えた美濃国の武将です。各地の戦いを重ね、1338年の青野原の戦いでは敗勢の足利方にあって目立った働きを見せた人物として知られています。

その一方、1342年には京都で光厳上皇の牛車に矢を放つ事件を起こし、同年12月に処刑されました。勇将としての功績と、既存の権威を恐れない行動が同居した土岐頼遠の生涯を、時代の流れに沿って見ていきます。

ひと目でわかる土岐頼遠

土岐頼遠は、美濃国を基盤とする土岐氏の武将で、足利方の有力な軍事力として幕府草創期を支えました。青野原の戦いで名を上げて美濃守護となりましたが、京都で光厳上皇の行列に狼藉を働き、処刑されました。

  • 土岐頼貞の子として生まれ、足利尊氏・直義に従った
  • 1338年の青野原の戦いで奮戦し、勇将として知られた
  • 1339年に父の跡を継ぎ、美濃国守護となった
  • 1342年に光厳上皇の牛車へ矢を放つ事件を起こした
  • 同年12月1日に京都で処刑され、土岐氏の家督は頼康へ受け継がれた

土岐頼遠と美濃土岐氏

父・頼貞のもとで足利方に加わる

土岐頼遠は、美濃源氏の流れをくむ土岐頼貞の子です。父の頼貞は鎌倉幕府末期から南北朝の動乱期にかけて勢力を伸ばし、美濃における土岐氏の地位を固めました。後醍醐天皇が進めた建武の新政が武士たちの支持を失うと、足利尊氏は新政権から離反します。頼遠も父とともに足利方へ参加し、幕府成立へ向かう戦いに加わりました。

頼遠は、尊氏の弟で政務を担った足利直義に従い、三河の矢作川や箱根・竹ノ下など東海道の戦場を転戦しました。これらは尊氏が京都で敗れて九州へ退く前後の重要な戦いであり、東国と京都を結ぶ美濃の武士が果たす役割は小さくありませんでした。頼遠の名が早くから知られたのは、土岐氏の家柄だけでなく、こうした戦場で積み重ねた働きがあったためです。

足利尊氏を支えた東海道の武将

1335年、足利尊氏は中先代の乱を鎮圧するため関東へ向かい、その後は後醍醐天皇の命令に従わず鎌倉にとどまりました。尊氏と新政権の対立が決定的になると、東海道は軍勢が往来する主要な進路となります。美濃を本拠とする土岐氏は、京都と東国の中間を押さえ、足利軍の移動や兵力の確保を支える立場にありました。頼遠はこの動乱の中で、足利尊氏の政権を軍事面から支える武将へ成長していきます。

尊氏は一度京都を追われましたが、九州で勢力を立て直し、1336年に再び上洛して室町幕府の基礎を築きました。頼遠も多々良浜の戦いなどに参加したとされ、足利方の再起に力を尽くしました。やがて京都の北朝と吉野の南朝が並び立つ南北朝時代が始まると、美濃は東国から京都へ向かう南朝軍を食い止める前線になります。頼遠の軍事力が最も大きく注目されたのが、次に起きた青野原の戦いでした。

青野原の戦いで示した軍事力

雪の残る青野原を進む土岐頼遠ら北朝方の騎馬武者

北畠顕家の西上を美濃で迎え撃つ

1338年1月、南朝方の北畠顕家は、奥州から大軍を率いて京都を目指しました。顕家軍は関東から東海道を進み、足利方の拠点を次々に破って美濃へ入ります。これに対し、土岐頼遠や桃井直常らは、現在の岐阜県大垣市青野町から不破郡垂井町付近に広がる青野原で迎撃しました。ここは東山道や鎌倉街道が通る交通の要地で、京都への進路を守るうえで重要な場所でした。

その後に行われた青野原の戦いでは、北畠軍が勝利し、足利方は大きく後退しました。ただし顕家軍も連戦で疲弊し、美濃からそのまま京都へ直進することはできませんでした。顕家は伊勢方面へ進路を変えたのち大和を経て河内へ向かい、同年5月に石津の戦いで戦死します。青野原で足利方は敗れましたが、その抵抗は南朝軍の進軍に負担を与え、京都を守る時間を生み出す結果につながりました。

「頼遠一人高名」と伝えられた奮戦

青野原の戦いにおける頼遠の働きは、『難太平記』に「青野原の軍は土岐頼遠一人高名と聞えし也」と記されました。足利方が敗れた戦いでありながら、頼遠だけは目立った武功を挙げたという評価です。軍記の表現には武将を際立たせる誇張が含まれることがあるため、戦場での具体的な行動や兵数をそのまま確定することはできません。それでも、頼遠の名が後世まで青野原と結び付けられたことは、勇将として高く評価された事実を示しています。

美濃は京都への東の入口にあたり、東国の軍勢を迎え撃つには土岐氏の協力が不可欠でした。頼遠の奮戦は本人の名声を高めると同時に、幕府にとって土岐氏を重く用いる理由になりました。翌1339年に父・頼貞が亡くなると、頼遠は一族の中心となり、美濃国守護の地位を継いで地域支配を担うことになります。

美濃守護となった頼遠の最期

京都の大路で光厳上皇の牛車と行き合う土岐頼遠の一行

父の跡を継いで美濃国守護となる

1339年、父の頼貞が亡くなると、頼遠は兄の頼清が早くに亡くなっていたため土岐氏の惣領となり、美濃国守護を継ぎました。守護は国内の軍事・警察を担う役職で、南北朝の内乱が続く時期には、地域の武士をまとめて幕府軍として動員する力が求められます。頼遠は青野原をはじめとする戦功を背景に、美濃の武士団を率いる立場へ進みました。土岐氏が室町時代を通じて有力守護へ成長するうえで、頼貞から頼遠へ続く初期の基盤づくりは重要でした。

一方、頼遠は武勇だけでなく、派手な振る舞いで既存の権威を恐れない「婆娑羅」の武将としても語られます。南北朝期には、戦乱を背景に身分秩序や古い慣習を軽んじ、華美な装いと大胆な行動を好む武士が現れました。ただし、婆娑羅という呼び名だけで頼遠のすべてを説明することはできません。幕府は彼の軍事力を必要とし、頼遠も守護として美濃の支配を担っていました。その力と自負の強さが、京都で取り返しのつかない事件へ向かうことになります。

光厳上皇への狼藉と六条河原での処刑

1342年9月、京都の大路を通っていた頼遠の一行は、北朝の光厳上皇の牛車と行き合いました。このとき頼遠は行列に道を譲らず、牛車へ矢を放つ狼藉を働きました。『太平記』は頼遠が上皇を侮る言葉を発した場面を劇的に描いていますが、台詞の細部は軍記ならではの表現として読む必要があります。重要なのは、幕府を支える有力武将が北朝の上皇の行列を攻撃し、京都の政治秩序を揺るがす重大事件を起こした点です。

事件後、頼遠はいったん美濃へ戻り、のちに上京して赦免を求めました。しかし処分は覆らず、同年12月1日に京都の六条河原で処刑されました。幕府にとって頼遠は軍功の大きな武将でしたが、北朝の権威を支えて政権を成り立たせる以上、この事件を見過ごすことはできませんでした。頼遠の死後も土岐氏そのものは滅ぼされず、家督は甥の土岐頼康へ受け継がれます。

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