新田義宗(にったよしむね)は、鎌倉幕府を倒した新田義貞の子です。父の死後も南朝方として活動し、兄の義興らとともに東国で足利尊氏に挑みました。
1352年の武蔵野での戦いでは、鎌倉へ迫る進軍の後、笛吹峠で尊氏方と戦います。新田一族がなぜ再び関東で兵を挙げ、勝敗がどのような影響を残したかを見ていきます。
ひと目でわかる新田義宗
新田義宗は新田義貞の子で、兄の義興や宗良親王らとともに南朝方として活動しました。1352年には武蔵野で足利尊氏方と戦い、笛吹峠で敗れて越後へ退きました。
- 新田義貞の子で、義興の弟
- 父の死後、越後などの新田一族と行動した。
- 1352年に宗良親王らと関東で挙兵した。
- 武蔵野の戦いを経て笛吹峠で足利尊氏方と戦った。
- 敗戦後は越後へ退いた。
義貞の死後に残った新田一族

父・新田義貞と東国の基盤
義宗の父新田義貞は、1333年に鎌倉幕府を倒した後、後醍醐天皇方として足利尊氏と対立しました。義貞は1338年に越前で戦死し、南朝方は有力な指揮官を失います。
しかし、新田一族の活動がそこで終わったわけではありません。義宗や兄の義興、脇屋義治らは、関東から越後にかけての武士とのつながりを保ちました。越後には新田一族と関係の深い所領があり、京都から離れた東国でも南朝方の軍事行動を支える基盤となります。東国の所領と一族の結びつきが、その後の挙兵を支えました。
幕府の内紛と南朝方の機会
1350年ごろから幕府内では尊氏と直義の対立が激しくなり、観応の擾乱が起こりました。京都の政権内での争いは京都から遠い関東の武士の配置や命令にも影響しました。直義が1352年に死去した後、南朝方は京都と鎌倉の双方で攻勢を強めました。
義宗は兄の義興や従兄弟の脇屋義治らとともに兵を集め、後醍醐天皇の皇子である宗良親王を奉じて武蔵へ向かいます。南朝方にとって東国の中心である鎌倉へ迫ることは、幕府に強い圧力をかける行動でした。政権内の分裂を機に関東の支配をめぐる争いが再び大きくなりました。
武蔵野から笛吹峠へ
鎌倉街道を進んだ軍勢
1352年、義宗と義興らは鎌倉街道を使って武蔵へ進み、尊氏方の軍勢と各地で戦いました。鎌倉街道は一本の道路ではなく、鎌倉と関東・上野方面を結ぶ複数の道の総称です。この道を確保できれば、兵や連絡を通しやすくなり、反撃を受けた際には退路にもなります。兄の義興らは鎌倉方面で行動し、義宗は武蔵野の北西側でも尊氏方と対峙しました。
義宗らは西上野から進み、武蔵で南朝方の軍勢を集めました。戦いの途中で鎌倉を占領した時期もありましたが、尊氏方が立て直すと南朝方の進撃は続きませんでした。
笛吹峠の敗戦と越後への後退
義宗は宗良親王らとともに笛吹峠に陣を置き、尊氏方と戦いました。現在の埼玉県鳩山町と嵐山町の境にある峠は、鎌倉街道上道の難所です。峠に陣取れば北へ続く道を押さえられますが、相手が兵を集めて攻めてくれば守り切ることは容易ではありません。
ここで義宗方は敗れ、越後へ退くことになります。義宗らの鎌倉進出は短期間に終わり、この戦いによって尊氏方が関東で主導権を回復します。
笛吹峠敗戦後も続いた南朝方の戦い

笛吹峠の敗戦後、義宗は越後へ退く
笛吹峠で足利尊氏に敗れた新田義宗は、越後へと退きました。一方、ともに戦っていた宗良親王は信濃へ退き、鎌倉を一時占領するまでに勢力を広げた南朝方の軍勢は、各地へ分散していきます。
1352年の一連の戦いは、義宗にとって大きな転機となりました。新田義興や脇屋義治らとともに挙兵し、一時は足利尊氏を鎌倉から退かせるほどの勢いを見せましたが、笛吹峠での敗北によって関東での大規模な反攻は終息していきます。
しかし、義宗の戦いがここで終わったわけではありません。越後へ退いた義宗は軍勢を立て直し、その後は越中方面へ進んで再び足利方に対抗する動きを見せます。
越後・北陸で再起を図る新田義宗
越後へ退いた義宗は、そのまま戦いから離れたわけではありません。1352年には越中の放生津へ進み、桃井直常らと合流して、再び足利方に対抗する動きを見せました。
さらに翌1353年にも、義宗は脇屋義治や宗良親王らとともに越後で挙兵します。笛吹峠で大きな敗北を喫した後も、新田一族と南朝方の抵抗は続いていました。
その後も義宗は越後を中心に活動し、足利方に対する抵抗を続けたと伝えられています。ただ、次第に大規模な軍事行動の記録は少なくなり、義宗の晩年は越後を中心とした新田氏勢力の維持に力を注いだとされています。


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