【日本史】土岐成頼とは?応仁の乱から船田合戦と隠居までを解説

室町時代

土岐成頼(ときしげより)は、室町時代後期の美濃守護です。斎藤氏の支援を受けて土岐家を継ぎ、応仁の乱では西軍に加わりました。京都での戦いを終えて美濃へ戻った後は、将軍家の足利義視を迎え、領国の政治に関わります。

しかし晩年には、子の政房と元頼をめぐる継承問題が、斎藤妙純と石丸利光の対立に結びつきました。成頼を支えた家臣団の力は、最後には当主の意思だけで後継者を決められない状況を生みます。家督継承から船田合戦後の隠居、最期までを解説します。

ひと目でわかる土岐成頼

土岐成頼は、斎藤氏の後押しで美濃守護となり、応仁の乱を西軍の一員として戦った人物です。1477年に足利義視を伴って美濃へ戻りましたが、1495年の船田合戦では元頼を支持する側が敗れ、隠居しました。1497年に亡くなり、瑞龍寺に葬られました。

  • 土岐家の継承争いで斎藤利永の支援を得て、美濃守護となる
  • 斎藤妙椿らの力を借り、美濃の支配を維持する
  • 1467年、山名宗全の西軍に加わり京都へ出陣する
  • 守護が京都で戦う間、妙椿が美濃で軍事力と経済力を強める
  • 1477年、足利義視を伴って美濃へ帰る
  • 1480年の妙椿の死後、家臣団の内部で対立が進む
  • 1495年、政房・元頼の継承問題が船田合戦へ発展する
  • 政房を支持する斎藤妙純の側が勝ち、成頼は隠居する
  • 1497年に死去し、菩提寺の瑞龍寺に葬られる

斎藤氏の支援で美濃守護となる

土岐家の継承争いを経て当主になる

土岐成頼が当主になる前、美濃の土岐家では後継者をめぐる争いが起きていました。当時、土岐持益の孫・亀寿丸を次の当主に推す家臣がいた一方、成頼を支持したのが守護代の斎藤利永でした。

守護代とは、守護に代わって領国の政治や軍事を担う役職です。美濃で実際に多くの武士を動かすことができた斎藤氏の支持は、成頼が土岐家を継ぐうえで大きな力となりました。こうして15世紀半ば、成頼は土岐家の当主となり、美濃守護に就きます。

そして当主になった後も、成頼には斎藤氏の力が必要でした。守護である成頼が命令を出しても、美濃各地の武士をまとめ、実際に軍勢を動かすには現地に力を持つ家臣の協力が欠かせなかったからです。成頼が土岐氏当主として美濃を治め、その支配を斎藤氏が支える。こうした関係によって成頼の領国支配は成り立っていました。

しかし、斎藤氏に頼るほど、その力も大きくなっていきます。この関係は、やがて成頼の晩年に大きな意味を持つことになります。

斎藤妙椿が領国支配と文化を支える

斎藤利永に続いて成頼を支えたのが、斎藤妙椿です。妙椿は美濃で大きな軍事力を持ち、成頼を支える中心人物となりました。さらに妙椿は、武将としてだけでなく和歌や連歌などの文化にも深い関心を持っていました。公家や僧侶など京都の文化人とも交流し、戦乱を逃れて美濃へやって来た人々を保護しています。1473年には、公家の一条兼良も妙椿の招きを受けて美濃を訪れました。応仁の乱によって京都が戦場となるなか、美濃は文化人が活動できる場所の一つにもなっていたのです。

妙椿は成頼のために瑞龍寺を建立し、悟渓宗頓を迎えました。瑞龍寺は、後に成頼自身が葬られることになる寺でもあります。政治や軍事だけでなく、こうした寺院や文化の面でも、成頼と妙椿は深く結びついていました。

そして1467年に応仁の乱が始まると、妙椿の存在はさらに重要になります。成頼が軍勢を率いて京都へ向かったためです。成頼が京都で長期間戦っている間、美濃の支配を支えたのが妙椿でした。一方で、美濃を実際に動かす妙椿の力もさらに大きくなっていきます。守護・土岐成頼を守護代の斎藤氏が支えるという関係は、応仁の乱を通じてさらに強まっていったのです。

応仁の乱を戦い美濃へ帰る

山名宗全の西軍として京都へ出陣する

1467年、京都で応仁の乱が始まりました。将軍家の後継者問題だけでなく、畠山氏や斯波氏など有力守護家の家督争いも重なり、多くの大名が東軍と西軍に分かれて戦います。成頼は山名宗全を中心とする西軍に加わり、美濃の軍勢を率いて京都へ向かいます。西軍には山名宗全のほか、大内政弘などの有力大名も加わっていました。一方の東軍を率いたのは細川勝元です。

当初は京都で始まった戦いでしたが、各地の大名が軍勢を送り込んだことで戦争は長期化しました。成頼もすぐに美濃へ戻ることはできず、京都で戦い続けることになります。そこで重要になったのが、美濃に残った斎藤妙椿です。

成頼が京都で戦っている間、妙椿が美濃の支配を支えました。領国を任せられる家臣がいたからこそ、成頼は長期間にわたって京都で戦うことができたのです。しかし、それは同時に妙椿が美濃でさらに力を強めることにもつながりました。成頼が京都で戦っている間にも、美濃では守護代・斎藤氏の存在感が大きくなっていったのです。

足利義視を伴って帰国する

1473年、山名宗全と細川勝元が相次いで亡くなりました。東軍と西軍を率いてきた二人が姿を消しても、戦いはすぐには終わりませんでした。成頼が美濃へ戻ったのは、応仁の乱が終息する1477年です。

このとき成頼とともに美濃へ向かった重要人物が足利義視です。義視は将軍・足利義政の弟で、一時は義政の後継者として将軍になる可能性もあった人物でした。ところが将軍家の後継者問題が応仁の乱と結びつくなかで、義視は西軍側に加わります。その義視を、成頼は戦後の美濃へ迎え入れたのです。こうして美濃は、京都を離れた将軍家の一員を受け入れる場所となりました。

一方、成頼自身も約10年に及ぶ京都での戦いを終え、美濃の政治へ戻ります。しかし、成頼が留守にしていた間、美濃では斎藤妙椿が大きな力を持つようになっていました。

そして1480年、その妙椿が亡くなります。成頼にとって妙椿は、長年にわたって美濃の支配を支えてきた重要な家臣でした。その妙椿がいなくなると、斎藤氏の内部でも主導権をめぐる争いが起こるようになります。やがてその争いは、成頼自身の後継者問題とも結びついていきました。

船田合戦と土岐成頼の最期

政房・元頼の継承争いが内戦となる

成頼の晩年、今度は自分の子どもたちの間で後継者争いが起こりました。争ったのは、政房と元頼です。成頼は元頼を後継者にしようとしましたが、守護代の斎藤妙純は政房を支持します。一方、元頼を支持したのが石丸利光でした。

つまり土岐家の後継者争いは、政房を支持する斎藤妙純と、元頼を支持する石丸利光という有力家臣同士の争いにもなったのです。成頼自身は守護でしたが、自分が元頼を選んだからといって、それだけで後継者を決めることはできませんでした。美濃で軍勢を動かす有力家臣たちが、別々の後継者を支持していたからです。

そして1495年、対立はついに武力衝突へ発展し、船田合戦が勃発します。戦いでは、政房を支持する斎藤妙純側が勝利しました。その結果、成頼が望んだ元頼ではなく、政房が土岐家の当主となります。元頼を支持していた成頼は、当主の座を退いて隠居することになりました。

隠居後の争乱と瑞龍寺に残る墓

船田合戦に敗れた成頼は出家し、宗安と名乗りました。そして方県郡の城田館に隠居します。

しかし、成頼が政治の中心から退いたからといって、美濃の争いが終わったわけではありません。翌1496年にも、斎藤妙純と石丸利光の間で城田寺合戦が起こりました。土岐家の後継者争いをきっかけに分裂した家臣たちの戦いが、その後も続いたのです。

そして1497年、成頼は亡くなりました。成頼は瑞龍寺に葬られ、現在も長年自分を支えた斎藤妙椿の墓と並んでいます。成頼の生涯を振り返ると、斎藤氏との関係が大きな意味を持っていたことが分かります。若いころには斎藤利永の支援を受けて美濃守護となり、応仁の乱では斎藤妙椿に美濃を任せることで京都で戦い続けました。しかし、斎藤氏など有力家臣の力が強くなるにつれ、守護である成頼だけでは家中をまとめられなくなっていきます。

守護が家臣を動かすだけではなく、力を持った家臣が守護家の後継者まで左右する時代へと変わり始めていました。土岐成頼の生涯は、室町時代の守護と守護代の力関係が変化していく過程をよく表しているのです。

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