山名時熙(やまなときひろ)は、室町時代前期の守護大名で、山名持豊(宗全)の父です。父・山名時義の死後に但馬を継ぎましたが、一族の氏清・満幸に攻められて領国を失い、その後は幕府方として戦うことで但馬守護へ復帰しました。
帰国を果たした時熙は、応永の乱でも幕府軍に加わり、備後へ支配を広げます。京都では将軍から意見を求められる宿老となり、領国では武士の所領を認める代わりに奉公を命じました。追われた当主が、軍事と政治の両面で山名家を立て直していった生涯です。
ひと目でわかる山名時熙
時熙は、一族の争いで但馬を失った後、明徳の乱で幕府側に立って守護へ戻りました。さらに備後守護となり、所領の安堵や年貢の請負を通じて支配を広げます。晩年には幕府の政務を支える一方、持豊への継承を進め、1435年に亡くなりました。
- 1367年、山名時義の子として生まれる。
- 1389年、父の死後に但馬を継ぐ。
- 1390年、氏清・満幸の攻撃を受けて但馬を失う。
- 明徳の乱では幕府側に立ち、1392年に但馬守護へ復帰する。
- 1399年の応永の乱に幕府方として加わる。
- 1401年、備後守護となり支配を広げる。
- 所領を認めた武士に在京奉公を命じ、領国と京都を結ぶ。
- 将軍義教の政務を支え、1433年に持豊へ家督を譲る。
- 1435年に没し、但馬を中核とする山名家の基盤を残す。
父の後を継ぐも、一族の攻撃で但馬を失う
父・時義の死と氏清・満幸との対立
山名時熙は貞治6年(1367年)、山名時義の子として生まれました。父の時義は但馬を中心に山名一族の惣領として活動していましたが、その地位をめぐっては以前から一族内に対立がありました。特に時義の兄である山名氏清や、先代の惣領・山名師義の子である満幸は、時義の系統が惣領を継ぐことに不満を抱いていたとされています。
康応元年(1389年)に時義が亡くなると、時熙が惣領の立場と但馬守護職を引き継ぎました。しかし、この継承によって氏清や満幸との対立が再び表面化します。さらに、将軍の足利義満も、山陰や近畿を中心に多くの守護職を持つ山名氏の勢力を警戒していました。義満は一族の対立を利用し、山名氏の力を弱めようとしたと考えられています。
明徳元年(1390年)、義満は時熙と弟の氏之が上洛命令に応じなかったことなどを問題視し、氏清と満幸に兄弟の追討を命じました。幕府の命令を受けた氏清らは但馬へ軍勢を進め、時熙たちを攻撃します。時熙は抵抗したものの敗れ、弟とともに備後へ逃れました。
この結果、時熙は父から受け継いだ但馬守護職を失い、代わって氏清が新たな守護となりました。義満による介入は山名一族の対立をいっそう深めましたが、今度は氏清や満幸自身が義満と対立するようになり、翌1391年の明徳の乱へと発展していきます。
明徳の乱で幕府側に立ち、守護へ復帰する
明徳2年(1391年)、但馬を追われていた山名時熙に再起の機会が訪れました。将軍の足利義満が、それまで追討の対象としていた時熙と弟の氏之を赦免し、今度は山名満幸を処罰しようとしたのです。
この方針転換に反発した満幸は、叔父の山名氏清らとともに幕府への反乱を決意します。氏清も義満のもとで時熙を追討し、但馬守護となった人物でしたが、今度は自らが幕府と対立する立場に追い込まれました。同年12月、氏清らは軍勢を率いて京都へ進軍したものの、内野の戦いで幕府軍に敗北し、氏清は戦死、満幸も敗走します。これが明徳の乱です。
反乱が鎮圧されると、時熙は山名家の惣領としての地位を回復し、明徳3年(1392年)には但馬守護に復帰しました。かつて自分を但馬から追放した氏清が討たれたことで、時熙は父から受け継いだ領国を取り戻したのです。ただし、山名一族が以前に持っていた11か国の守護職が回復したわけではなく、多くの旧領は幕府に味方した大名へ与えられました。
時熙は但馬を再び治めるようになりましたが、山名氏の勢力は明徳の乱によって大きく縮小していました。以後は幕府との関係を保ちながら、失われた一族の勢力を少しずつ回復していくことになります。
応永の乱の戦功を領国の再建へつなげる
大内義弘の挙兵と備後守護への就任
1399年、大内義弘が堺で幕府に反抗し、応永の乱が起こりました。時熙は明徳の乱に続いて幕府方に加わり、反乱を抑える側で戦います。山名一族の中には大内方に呼応する者もいたため、時熙は同じ山名姓の武士を相手にしながら、将軍側を支えます。丹波の反幕府勢力を攻めた後、幕府軍に合流し、義弘を討つ戦いに参加しました。
大内義弘の敗死後、幕府はその旧領を再編し、1401年には時熙を備後守護に任じます。備後は現在の広島県東部にあたり、時熙は但馬に加えて山陽側にも支配の足場を得ました。一族に追われた時期から十年余りを経て、幕府側で重ねた軍事活動が、新しい守護職の獲得へつながったのです。
大田荘の年貢を請け負い、備後支配を広げる
応永8年(1401年)、山名時熙は新たに備後守護となり、佐々木筑前入道と太田垣式部入道を守護代として派遣しました。備後は現在の広島県東部にあたり、瀬戸内海に面した港町の尾道や、内陸部に広がる荘園を抱えていました。時熙は現地の武士を通じて領国を治める一方、寺社が持つ荘園の管理にも関わるようになります。
その代表的な例が、高野山金剛峯寺の領地だった大田荘です。現在の広島県世羅町周辺に広がっていた大田荘は、豊かな農地を持つ大規模な荘園でした。しかし、土地の権利を持つ高野山が遠く離れた備後で直接年貢を集めることは難しく、現地の武士や管理者との関係も複雑になっていました。
そこで応永9年(1402年)7月、幕府は時熙に大田荘や尾道倉敷などを管理させ、毎年千石の年貢を高野山へ納めるよう命じました。これは「守護請」と呼ばれる仕組みで、時熙が現地で年貢を徴収する代わりに、荘園領主である高野山へ一定量を納入するものです。
この取り決めによって、時熙は高野山の荘園領主としての権利を残しながら、大田荘の土地や年貢の管理に深く関わることができるようになりました。さらに、年貢の集積や輸送に関わる尾道にも影響力を及ぼし、備後での支配を強めていきます。
時熙はこうして、守護代を通じた武士の統制に加え、荘園の年貢徴収にも関わることで備後の支配を進めました。明徳の乱後に但馬守護へ復帰した時熙は、幕府との関係を回復するなかで、新たに得た備後にも勢力を広げていったのです。
但馬の武士に所領と在京奉公を結びつける
本拠地の但馬でも、時熙は武士の土地支配を認める文書を出していました。1402年8月に安田孫三郎へ宛てた命令文書の写しには、楽前荘の地頭職のうち北分について、直接所務を行わせることが記されています。地頭職は土地の管理や年貢の徴収などに関わる職と権利で、所務はそうした土地の管理・収益の取り扱いを指します。
同じ文書で、時熙は安田氏に京都で奉公するよう命じています。土地の支配を認めることと、時熙のもとで働かせることが、一通の命令の中で結びついていたのです。
このように土地の支配を認めることを「安堵」といいます。在京奉公は京都に滞在して主君に仕えることで、領国に住む武士にとっては、現地の土地支配とは別の負担でした。時熙は、武士が土地を保つために必要な権利を与え、その武士に京都での勤務を負わせました。土地に関する権利の承認と奉公の命令を結び付けることで、時熙は但馬の武士との関係を京都での活動にもつないでいました。
幕府の宿老としての活動と持豊への継承
1428年、足利義教の将軍擁立に関わる
但馬や備後の支配を進めた時熙は、京都でも幕府の政務に関わり、有力な守護大名として発言力を強めていきました。かつて明徳の乱の前には幕府から追討された時熙でしたが、領国を回復した後は将軍との関係を深め、幕府の重要な問題について意見を求められる立場となっていました。
正長元年(1428年)、将軍の足利義持が後継者を決めないまま危篤となると、幕府では次の将軍を誰にするのかが大きな問題となりました。義持の息子で5代将軍だった義量はすでに亡くなっており、幕府の重臣たちは義持の弟たちから後継者を選ぶことになります。
しかし、候補者を一人に絞ることは難しく、最終的には石清水八幡宮でくじを引いて決める方法が採られました。その結果、青蓮院で出家していた義円が選ばれ、還俗して足利義教と名乗るようになります。時熙も、この後継者選定に関わった有力大名の一人でした。
足利義教から政務の相談を受ける宿老となる
義教が将軍となった後も、時熙は畠山満家らとともに幕府の政務を支えました。長年にわたって幕府の政治に関わってきた時熙は「宿老」と呼ばれる立場にあり、各地で起こる争いや守護大名への対応について、将軍から意見を求められるようになります。
特に大きな変化が起こったのは、永享3年(1431年)のことでした。当時、関東の鎌倉府をめぐる問題で足利義教と管領の斯波義淳が対立し、幕府内での方針決定が滞る事態が起こりました。それまで将軍は管領を通じて諸大名の意見を集めることが一般的でしたが、義教は問題への対応を早めるため、時熙や畠山満家ら宿老に直接意見を求める機会を増やしていきます。
時熙はこうして、将軍から直接相談を受ける有力大名として幕府の政治に関わりました。かつて足利義満によって但馬を追われた時熙は、領国を取り戻しただけでなく、その後の幕府で将軍の重要な相談相手となるまでに地位を高めたのです。
1433年の家督継承と1435年の死
時熙は晩年、三男の山名持豊へ家督を譲りました。1433年8月には義教が持豊を備後・安芸など四カ国の守護に任じ、所領を認めています。
時熙が一代をかけて回復した地位と領国は、生前に次代へ渡されました。のちの宗全が有力守護として活動できた出発点は、この継承にあります。
時熙は1435年に亡くなりました。但馬を追われた時期を経て、同国への復帰、備後守護への就任、京都での政務参加へと活動を広げた生涯でした。その再建は戦功だけによるものではなく、領国の武士に所領を認めて奉公を求め、寺社の年貢を請け負い、幕府の相談に応じる仕事の積み重ねによって支えられていました。


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