【日本史】細川澄元とは?政元の養子から高国との家督争いを解説

室町時代

細川澄元(ほそかわすみもと)は、阿波の細川氏から細川政元の養子となり、細川京兆家の家督を継いだ戦国時代の武将です。1507年の政元暗殺後、一度は後継者争いに勝ちましたが、翌年には細川高国に京都を追われました。

その後の澄元は、阿波守護家の有力家臣・三好之長とともに、四国と畿内を往復しながら復帰をめざします。将軍家の争いとも結びついた抗争は、1520年の澄元の死で終わらず、子の晴元と次の世代の三好氏へ受け継がれました。

ひと目でわかる細川澄元

細川澄元は、阿波守護家から細川政元の養子となり、1507年に細川京兆家の家督を継いだ武将です。翌年には細川高国との対立で京都を追われ、三好之長とともに四国を足場として復帰を目指しました。1520年に高国方の反撃を受けて阿波へ退き、同年に病没します。その後の家督争いは、子の晴元へ受け継がれました。

  • 1489年、阿波守護・細川義春の子として生まれる。
  • 1503年、細川政元の養子となり、後継者として迎えられる。
  • 1507年、政元暗殺後の争いで細川澄之方が滅びると、帰京して京兆家を継ぐ。
  • 1508年、細川高国・大内義興方に京都を追われる。
  • 三好之長らとともに、京都への復帰を目指して高国と争う。
  • 1520年、高国方の反撃を受けて敗れ、阿波で病没する。

阿波守護家から細川京兆家の後継者へ

阿波守護・細川義春の子として生まれる

細川澄元は延徳元年(1489年)、阿波守護を務めた細川義春の子として生まれました。細川氏は室町幕府の管領を出す有力な一族でしたが、各地に分かれた家がそれぞれ守護職を持っており、澄元の実家も阿波を拠点とする守護家でした。

一方、京都では細川氏の本家にあたる京兆家(けいちょうけ)の当主・細川政元が幕府の実権を握っていました。政元は明応2年(1493年)に将軍・足利義材(足利義稙)を追放する明応の政変を起こし、足利義澄を新たな将軍に擁立した人物です。しかし、政元には実子がなく、誰に京兆家を継がせるのかという問題を抱えていました。

政元は当初、関白・九条政基の子を養子として迎え、細川澄之と名乗らせていました。ところが、文亀3年(1503年)になると、新たに阿波守護家から澄元を養子に迎えます。細川一族の血を引く澄元が後継者候補に加わったことで、京兆家の家督をめぐる争いが始まりました。

1504年、薬師寺元一が澄元を擁立して挙兵する

澄元を養子に迎える際に重要な役割を果たしたのが、摂津守護代の薬師寺元一でした。元一は文亀3年(1503年)に阿波へ赴き、澄元を政元の養子に迎えるための交渉を進めた人物で、澄元が京兆家の当主となることを強く望んでいました。

しかし、政元は澄之を養子から外したわけではなく、後継者の立場は不安定なままでした。元一は澄元への家督継承を確実にしようと考え、永正元年(1504年)9月、山城国の淀藤岡城で挙兵します。元一が目指したのは政元を退け、澄元を京兆家の当主に立てることでした。

これに対して政元は元一の討伐を命じ、元一の弟である薬師寺長忠らが攻撃に加わります。淀藤岡城はまもなく落城し、捕らえられた元一は自害に追い込まれました。

三好之長に支えられて京都へ入る

永正3年(1506年)、澄元は阿波から京都へ入り、政元の後継者として活動するようになります。このとき澄元を支えたのが、阿波の有力武士である三好之長でした。

之長はもともと阿波守護家に仕えていた人物で、澄元が京兆家の養子となった後も、その家臣として活動しました。澄元にとって、京都には従来から政元に仕えてきた家臣たちがいる一方、阿波から同行した之長らは自らの立場を支える重要な存在でした。

しかし、阿波から新たな家臣団が京都へ入ったことは、京兆家の内部に新たな対立を生みました。澄之を支持する香西元長や薬師寺長忠らは、澄元と之長の台頭に反発し、家督争いはますます激しくなっていきます。

細川政元の暗殺と京兆家の家督継承

1507年、政元が暗殺され近江へ逃れる

永正4年(1507年)6月23日、細川政元が京都の屋敷で暗殺されました。事件を起こしたのは、澄之を支持する香西元長や薬師寺長忠らで、政元を殺害することで澄之の家督継承を確実にしようとしたのです。

翌24日には澄元の居所も襲撃されました。澄元は三好之長らとともに京都を脱出し、近江へ逃れます。政元の養子となってから数年、ようやく京都で活動を始めた澄元でしたが、養父の暗殺によって後継者の地位を奪われることになりました。

その後、澄之は将軍・足利義澄から京兆家の家督継承を認められます。しかし、政元に仕えていた家臣たちがすべて澄之に従ったわけではありません。細川高国や細川政賢らは澄之に反発し、澄元を支持して反撃を始めました。

澄之を倒し、細川京兆家の家督を継ぐ

澄元を支持する細川高国や政賢らは、澄之方の拠点を次々と攻撃しました。摂津の茨木城や山城の嵐山城が攻略されると、澄之は京都で孤立し、永正4年(1507年)8月1日には宿所の遊初軒を攻撃されて命を落とします。

澄之を支持していた香西元長や薬師寺長忠らも討たれ、政元暗殺をきっかけに起こった家督争いは、澄元側の勝利によって決着しました。

澄元は京都へ戻り、足利義澄のもとで細川京兆家の家督を継ぎます。阿波守護家の子として生まれた澄元は、18歳で幕府の実権を握る細川家の当主となったのです。

この頃の澄元を伝えるものに、永青文庫が所蔵する重要文化財「細川澄元像」があります。狩野元信が描いた騎馬武者姿の肖像画で、永正4年(1507年)10月の景徐周麟による賛が添えられています。賛によれば、澄元は足利尊氏の甲冑姿を描いた肖像を見て、家督争いに勝利した記念として自らの肖像画を制作させました。

細川高国との対立と京都からの追放

1508年、細川高国の離反によって京都を失う

澄元が京兆家の当主となるうえで大きな働きをした細川高国でしたが、翌永正5年(1508年)には両者の関係が悪化します。

高国は澄元と対立して京都を離れると、前将軍・足利義稙を支える勢力と結びました。義稙は明応の政変で政元に将軍の地位を追われ、周防の大内義興を頼っていた人物です。義興は義稙を将軍に復帰させるため、軍勢を率いて京都へ向かっていました。

高国が義興らと結んだことで、澄元は家督の地位だけでなく、自らが支持する将軍・義澄の立場も守らなければならなくなります。高国が京都へ軍勢を進めると、澄元はこれを防ぎきれず、同年4月に三好之長らとともに近江へ逃れました。義澄も京都を離れ、近江の朽木谷へ退くことになります。

同年6月には義稙が京都へ入り、7月に将軍へ復帰しました。高国は新たな政権のもとで京兆家の家督を掌握し、澄元は前年に獲得したばかりの京都での地位を失ってしまいます。

阿波を拠点に京都奪回を目指す

京都を追われた澄元は、近江で反撃の機会を探りました。永正6年(1509年)には三好之長が軍勢を率いて京都東山の如意ヶ嶽付近へ進みますが、高国と大内義興の軍勢に敗れ、澄元側は再び退却を余儀なくされます。

その後、澄元は実家のある阿波を拠点として勢力を立て直しました。阿波守護家の出身である澄元には、京兆家の家督を失っても、四国で活動を支える武士たちがいました。特に三好之長は澄元の軍事活動を支え続け、再び畿内へ進出するための準備を進めます。

一方、澄元は阿波に退いた後も、四国の所領をめぐる問題に命令を出していました。

永正7年(1510年)5月、讃岐国高瀬郷で秋山氏の一族が土地の権利を争うと、澄元は双方の主張を認めず、争いの対象となった土地を守護料所として扱うよう命じています。守護料所とは、守護の収入に充てられる土地のことで、澄元は代官を置くよう香川五郎次郎に指示しました。

この文書からは、澄元が京都を追われた後も、讃岐の家臣に命令を出し、土地の支配に関わっていたことが分かります。阿波での活動は京都への反撃を準備するだけではなく、四国の所領と家臣を維持するためのものでもありました。

船岡山の戦いと畿内への再進出

1511年、京都を奪還するも船岡山で敗れる

永正8年(1511年)、澄元は細川政賢や細川尚春、赤松義村らと協力し、再び畿内へ軍勢を進めました。澄元側は摂津などで高国方を攻撃し、京都を取り戻そうとします。

同年8月になると、澄元方の攻勢によって高国と大内義興は京都を離れ、将軍・義稙とともに丹波へ退却しました。澄元側は一時的に京都を押さえ、失っていた京兆家の地位を回復する機会を得ます。

しかし、その直後の8月14日、澄元が将軍への復帰を期待していた足利義澄が近江で亡くなりました。義澄を擁立することで高国政権に対抗していた澄元にとって、その死は大きな痛手でした。

さらに8月24日、高国と義興は丹波から反撃し、京都北部の船岡山で澄元方の軍勢を破ります。この戦いでは澄元に味方していた細川政賢も討死し、澄元側は京都を維持できなくなりました。

澄元は再び畿内から退き、阿波を拠点に高国への対抗を続けることになります。京兆家の家督を取り戻す試みは、義澄の死と船岡山での敗北によって失敗に終わったのです。

大内義興の帰国を機に再び軍勢を動かす

船岡山で敗れた後も、澄元は高国への対抗を諦めませんでした。ただし、高国の政権は大内義興の軍事力に支えられており、澄元が阿波から軍勢を送っても、容易に京都へ進める状況ではありませんでした。

その情勢が変わったのが、永正15年(1518年)です。義興は長年にわたって京都に滞在していましたが、周防や長門などの領国に対応するため、軍勢を率いて帰国しました。

高国は義興という有力な協力者を失い、畿内での軍事力を維持することが難しくなります。澄元はこの機会を捉え、三好之長とともに再び京都への進出を計画しました。

永正16年(1519年)11月、澄元は之長らの軍勢を率いて阿波から海を渡り、摂津の兵庫へ上陸します。永正5年(1508年)に京都を追われて以来、何度も反撃に失敗してきた澄元にとって、高国を倒すための新たな攻勢でした。

1520年の京都奪還と細川澄元の最期

越水城を攻略し、細川高国を京都から追う

摂津へ上陸した澄元は、まず高国方の瓦林政頼が守る越水城(現在の兵庫県西宮市)を攻撃しました。越水城は西宮周辺を押さえる重要な城で、澄元が京都へ進むためには、高国方の拠点を退ける必要がありました。

瓦林政頼は城に籠もって抵抗を続け、両軍は西宮や尼崎の周辺で戦いを重ねます。しかし、永正17年(1520年)2月3日、瓦林方が越水城を退去すると、澄元側はさらに東へ進軍しました。

2月には池田城や伊丹城も澄元方に攻略され、高国は摂津での戦いに敗れて京都へ退きます。それでも澄元方の攻勢は止まらず、高国は最終的に近江へ逃れることになりました。

高国を追い払った後、三好之長は京都へ入り、澄元自身も3月には摂津の伊丹城に進みました。さらに4月、澄元はそれまで敵対していた将軍・義稙から京兆家の家督継承を認められます。

かつて義稙を支持する高国によって京都を追われた澄元でしたが、今度は義稙と結ぶことで高国に対抗する立場となりました。永正4年(1507年)に初めて家督を継いでから13年、澄元は再び京兆家の当主として認められたのです。

高国の反撃で三好之長を失い、阿波へ退く

しかし、澄元が家督を取り戻してから間もなく、高国が反撃を開始しました。近江へ退いていた高国は、守護の六角定頼らの支援を得て軍勢を集め、永正17年(1520年)5月、京都へ攻め込みます。

このとき澄元は伊丹城に滞在しており、京都では三好之長が高国軍を迎え撃ちました。しかし、之長は戦いに敗れ、京都の知恩院で自害に追い込まれます。

之長は澄元が阿波から京都へ入った頃から仕え、政元暗殺後の逃亡や高国との戦いでも澄元を支えてきた重臣でした。その之長を失ったことで、澄元は京都での軍事的な支えを大きく失うことになります。

高国が京都を奪還したことを知った澄元は、伊丹城から播磨を経て阿波へ退却しました。再び京兆家の家督を認められたものの、その地位を維持することはできなかったのです。

1520年、阿波で病死する

永正17年(1520年)6月10日、澄元は阿波で病死しました。32歳でした。

澄元は15歳で政元の養子となり、18歳で京兆家の家督を継ぎました。しかし、その翌年には細川高国との争いによって京都を追われ、以後は阿波を拠点に何度も畿内への進出を試みています。

永正8年(1511年)の船岡山の戦いでは高国に敗れましたが、永正17年(1520年)には高国を京都から追い払い、再び京兆家の家督を認められるところまで勢力を回復しました。それでも、長年にわたって澄元を支えてきた三好之長が討たれると、再び阿波へ退き、まもなく病死しています。

澄元自身は高国との争いに決着をつけられませんでしたが、その死後も阿波の細川氏と三好氏は高国への対抗を続けました。澄元の子・細川晴元は、之長の孫である三好元長らの支援を受け、再び畿内へ進出していきます。

細川澄元は、阿波守護家から細川京兆家の当主となり、家督をめぐって細川高国と争い続けた武将でした。 その生涯の大半を京都の奪回に費やしましたが、最後まで安定した支配を築くことはできず、争いは息子の晴元へと引き継がれました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました