【日本史】畠山政長とは?義就との家督争いから明応の政変の最期まで

室町時代

畠山政長(はたけやままさなが)は、室町幕府の管領を務め、畠山氏の家督をめぐって畠山義就と争った武将です。1467年の御霊合戦で敗れた後も幕政に関わり続け、応仁・文明の乱が終わってからも領国の支配を争いました。

政長の立場を大きく左右したのは、将軍の支持と、領国の武士たちの動きでした。家督を得て管領となるまで、山城国一揆による撤兵、明応の政変で迎えた最期をたどりながら、長い抗争のなかで何が変わったのかを見ていきます。

ひと目でわかる畠山政長

政長は、京都で将軍を支える役目と、各地の領国を治める立場を兼ねていました。幕府での地位を保っていても、現地では対立する義就方との戦いが続きました。

  • 畠山持富の子として生まれ、兄・弥三郎の死後に義就と家督を争う立場を継ぐ。
  • 1460年、将軍足利義政の支持を得て畠山氏の家督を継ぐ。
  • 1464年に管領となり、将軍を補佐するとともに河内・紀伊・越中などの守護を務める。
  • 1467年の御霊合戦で義就に敗れ、応仁・文明の乱では東軍に属する。
  • 京都の戦乱が収まった後も義就との抗争を続け、河内の支配回復を目指す。
  • 1485年、山城国一揆の要求を受け、義就の軍とともに南山城から撤退する。
  • 1493年、将軍足利義材と河内へ出陣するが、明応の政変で軍事的な支えを失う。
  • 正覚寺で攻撃を受けて自害し、子の尚順が紀伊へ逃れて抗争を引き継ぐ。

畠山家の家督争いと政長の台頭

伯父・畠山持国の後継者争いに巻き込まれる

畠山政長は嘉吉2年(1442年)、畠山持富の子として生まれました。父の持富は室町幕府の管領を務めた畠山持国の弟であり、持国に後継となる男子がいなかった頃には、家督を継ぐ人物として考えられていました。しかし、持国が実子の畠山義就を後継者に選んだことで状況が変わり、畠山家では義就を支持する家臣と、持富の系統を推す家臣が対立するようになります。

持国の決定に反発した家臣たちは、持富の子である畠山弥三郎を擁立しました。弥三郎は政長の兄にあたり、叔父の持国や義就と家督を争うことになります。この対立には幕府の有力者も関わっており、管領の細川勝元は弥三郎を支援して、畠山家の内部で影響力を強めようとしていました。

ところが長禄3年(1459年)、家督争いを続けていた弥三郎が亡くなります。すると、弥三郎を支えていた家臣たちは弟の政長を新たな後継者として擁立し、細川勝元も引き続き支援しました。政長は自ら家督争いを始めたわけではありませんでしたが、兄の死によって義就と争う立場を引き継いだのです。

1460年、畠山義就を退けて家督を継ぐ

長禄4年(1460年)、政長に家督を継ぐ機会が訪れました。畠山義就の行動を問題視した将軍・足利義政が義就の追討を命じ、細川勝元らも政長を支持したことで、畠山家の家督は政長へ移ることになります。

しかし、義就は将軍の命令に従って抵抗をやめたわけではありませんでした。河内へ退いた義就は、同国の嶽山城(現在の大阪府富田林市付近)に籠もり、政長を支持する幕府軍を迎え撃ちます。

政長は細川氏の軍勢や大和の武士たちと協力して嶽山城を包囲しましたが、義就は山城の地形を利用して抵抗を続け、城を攻め落とすことは容易ではありませんでした。戦いは長期化し、政長は幕府から当主として認められながらも、義就を倒すために軍勢を動かし続けることになります。

寛正4年(1463年)、約2年半に及んだ嶽山城の戦いは、幕府軍の勝利によって終わりました。義就は城を離れて大和方面へ退き、政長は河内における自らの立場を強めます。ただし、義就はその後も再起の機会をうかがっており、畠山家の家督争いが完全に終わったわけではありませんでした。

管領への就任と御霊合戦

1464年、室町幕府の管領に就任する

義就との戦いを有利に進めた政長は、寛正5年(1464年)に管領へ就任しました。管領は将軍を補佐して幕府の政務を取りまとめる役職で、畠山氏は細川氏・斯波氏とともに管領を出すことのできる家柄でした。

政長は管領として将軍・足利義政の命令を諸大名や地方の武士へ伝え、幕府の政治に関わるようになります。一方、政長は河内・紀伊・越中などの守護でもあり、京都で幕府の政治に携わりながら、各地の家臣たちを通じて領国を治めていました。特に越中では神保氏や遊佐氏らの有力家臣が政長を支持しており、義就との争いが続くなかでも、こうした家臣団が政長の勢力を支えていました。

しかし、政長の地位は将軍や有力大名の支持によって成り立つ部分も大きく、京都の政治情勢が変われば、再び家督を脅かされる恐れがありました。そして文正元年(1466年)、山名宗全の支援を受けた義就が京都へ戻ったことで、両者の立場は大きく変わることになります。

山名宗全の支援を受けた義就が京都へ戻る

文正元年(1466年)、畠山義就は山名宗全の支援を受けて京都へ入りました。宗全は細川勝元と並ぶ有力な守護大名であり、幕府の政治をめぐって勝元との対立を深めていました。勝元が政長を支援していたこともあり、宗全は義就を支持することで、幕府内での影響力を強めようとしたのです。

当時の幕府では、畠山家だけでなく斯波家でも家督争いが起こっており、有力大名たちはそれぞれ異なる人物を支持していました。宗全は畠山義就や斯波義廉と結び、勝元が支持する政長らに対抗する勢力を形成していきます。

こうした状況のなか、将軍・義政も義就の復帰を認め、応仁元年(1467年)正月には政長を管領から退けました。新たな管領となったのは、宗全と結びついた斯波義廉です。

それまで将軍の支持を受けて家督を守ってきた政長でしたが、今度は義就が幕府に認められることになりました。政長は家督を明け渡すことを拒み、京都で軍勢を集めて義就との決戦に備えます。

1467年、御霊合戦で義就に敗れる

御霊神社

応仁元年(1467年)1月、政長は自邸に火を放ったうえで、京都の上御霊社に軍勢を集めました。これに対して義就も兵を率いて進軍し、1月18日、両軍は上御霊社の周辺で衝突します。これが御霊合戦です。

政長を長く支えてきた細川勝元は、今回も政長に味方する立場でした。しかし、将軍の義政が諸大名に合戦への介入を禁じていたため、勝元は直接軍勢を動かすことができませんでした。一方の義就は山名宗全の支援を背景に攻撃を進め、政長の軍勢を追い詰めていきます。

戦いは義就の勝利に終わり、政長は上御霊社から敗走しました。政長は管領の地位を失ったうえ、京都での戦いにも敗れたことになりますが、細川勝元との関係が途切れたわけではありませんでした。

むしろ、この戦いによって宗全と勝元の対立はいっそう深まり、両者は各地の大名を味方につけて軍勢を集め始めます。同年5月には京都で東西両軍の大規模な戦闘が始まり、畠山家の家督争いは応仁の乱へとつながっていきました。

応仁の乱と河内支配をめぐる争い

東軍に属し、畠山義就との戦いを続ける

応仁の乱が始まると、政長は細川勝元を中心とする東軍に加わり、山名宗全が率いる西軍の義就と対立しました。京都では東西両軍が屋敷や寺院を陣地として激しい戦闘を繰り広げ、戦火によって多くの建物が焼失していきます。

政長にとって、この戦争は幕府内の勢力争いであると同時に、畠山家の当主としての地位を守るための戦いでもありました。義就を支持する勢力が強まれば、河内や紀伊などの領国でも政長に従う武士たちが攻撃を受けるため、京都だけでなく各地で戦いを続ける必要があったのです。

実際に河内では、政長側の守護代や在地武士が義就方と争い、城を奪い合う戦闘が続きました。文明3年(1471年)には政長方が嶽山城を攻略しましたが、義就方も反撃を行っており、一度城を奪っても安定した支配につながるとは限りませんでした。

政長は京都で幕府の政治に関わりながら、河内の家臣を通じて義就への対抗を続けることになります。

1477年、畠山義就に河内を奪われる

文明9年(1477年)、応仁の乱が終息へ向かうなか、義就は京都を離れて河内へ進軍しました。義就は本来の領国を取り戻すために軍勢を動かし、政長に従う武士たちが守る城や拠点を次々と攻撃します。

同年9月から10月にかけて義就方の攻勢は激しさを増し、10月9日には若江城や嶽山城が攻略されました。若江城を守っていた政長方の守護代・遊佐長直も城を維持できずに退き、義就は短期間で河内の広い地域を押さえることに成功します。

政長は引き続き幕府から河内守護として認められていましたが、実際に河内の城や土地を支配するのは義就という状況になりました。幕府は義就への追討命令を出したものの、義就に従う武士たちは河内や大和で勢力を広げており、政長がすぐに領国を取り戻すことはできませんでした。

その後、政長は管領に復帰し、文明10年(1478年)には山城守護としても活動するようになります。しかし、京都で幕府の要職を務めていても、義就が押さえる河内を回復することはできず、両者の争いは応仁の乱が終わった後も続くことになりました。

山城国一揆と政長の勢力後退

1482年、河内奪還を目指して出陣する

文明14年(1482年)、政長は義就が支配する河内を取り戻すため、京都から軍勢を率いて出陣しました。政長には幕府から義就追討の命令が出されており、かつて河内で義就に敗れて退いた大和の武士たちも、政長による反撃を期待していました。

しかし、義就は河内の城や土地を押さえ、現地の武士たちを従えることで強い勢力を保っていました。政長は細川政元らの協力も得て義就に対抗しましたが、河内の支配を奪い返すことはできず、戦いは山城南部にも広がっていきます。

文明15年(1483年)には義就が山城南部へ進出し、政長方の軍勢と衝突しました。両者は木津川流域を中心に城や陣地を設け、相手の進出を阻もうとしましたが、決着がつかないまま戦闘が長期化していきます。

このため、山城南部では政長方と義就方の軍勢が駐留し続けることになりました。軍勢が食糧や物資を求めれば、周辺の村や寺社にも負担が及び、住民たちは畠山家の家督争いに長く巻き込まれることになります。

1485年、山城国一揆によって撤退を求められる

文明17年(1485年)、南山城では長く続く戦いに不満を持った国人や農民たちが集まり、政長方と義就方の双方に撤退を求めるようになりました。国人とは地域に土地や軍事力を持つ武士のことで、彼らは畠山氏の争いによって自分たちの土地や生活が脅かされる状況を変えようとしたのです。

同年12月には南山城の国人たちが集会を開き、畠山両軍への対応を協議しました。さらに周辺の農民たちも加わり、政長と義就の双方に軍勢を引き揚げるよう交渉を進めます。

こうして起こったのが山城国一揆です。国人たちは両軍を南山城から撤退させたうえで、勝手に軍勢を入れないことや、新たな関所を設けないことなどを定め、地域の秩序を自分たちで維持しようとしました。

政長にとって、この撤退は大きな打撃でした。義就を追討するために軍勢を動かしていたにもかかわらず、戦いを続けていた地域の武士や住民から、義就とともに撤退を求められたためです。

政長は幕府から義就追討の命令を受けていましたが、その権威をもってしても、南山城の国人たちの要求を退けることはできませんでした。長年にわたって争いを続けてきた畠山両軍は、地域の人々によって戦場から退くことになったのです。

山城守護と管領の地位を失う

山城国一揆によって南山城からの撤退を余儀なくされた政長は、幕府内でも次第に立場を弱めていきました。

文明18年(1486年)5月には山城守護が伊勢貞陸に移り、同年7月には政長が管領を退いて、細川政元が新たな管領となります。政長は義就との戦いに長く苦しんだうえ、幕府の重要な役職も相次いで失うことになりました。

一方の義就は河内での支配を維持し、寺社へ所領を認める文書を出すなど、現地の領主として活動を続けていました。政長が正式な河内守護とされていても、実際に土地を治めているのは義就という状況は変わらなかったのです。

政長はその後も河内の奪還を諦めず、再び幕府の軍事力を利用して義就の勢力を討とうとしました。しかし、この方針が後に細川政元との対立を招き、政長自身の最期につながることになります。

明応の政変と畠山政長の最期

1493年、将軍・足利義材とともに河内へ出陣する

延徳2年(1490年)、長年の宿敵だった畠山義就が亡くなると、その子の畠山基家が家督を継ぎました。基家は後に義豊と名乗る人物で、父から河内の勢力を引き継ぎ、引き続き政長と対立します。

政長は義就の死を機に河内の奪還を進めようとしましたが、基家も父の築いた支配を守ろうとしたため、両者の争いは終わりませんでした。政長は新たな将軍となった足利義材(足利義稙)に基家の討伐を求め、幕府の軍勢によって河内を取り戻そうとします。

明応2年(1493年)3月、義材は政長の要請を受け入れ、諸大名や将軍直属の奉公衆を率いて河内へ出陣しました。政長もこの遠征に参加し、基家が守る高屋城への攻撃を進めます。

政長にとっては、長年奪い返せなかった河内を回復する機会でした。しかも今回は自らの家臣だけでなく、将軍が直接率いる軍勢も参加しており、基家に対して大きな圧力をかけることができました。

しかし、将軍と政長が河内へ出陣している間に、京都では幕府の政治を大きく変える動きが進んでいました。

細川政元が明応の政変を起こす

明応2年(1493年)4月22日、京都に残っていた細川政元が、日野富子や伊勢貞宗らと協力して政変を起こしました。政元は将軍・義材を退け、足利義澄となる香厳院清晃を新たな将軍候補として擁立します。これが明応の政変です。

政元はかつて政長の家督継承を支えた細川勝元の子でしたが、政長と同じ立場を取り続けたわけではありませんでした。政元は義材による政治運営に反発し、河内への出陣にも参加せず、将軍が京都を離れた機会を利用して政権を奪おうとしたのです。

政変が起こると、政元は河内で政長と対立していた畠山基家を赦免し、新たに河内守護として認めました。これによって、それまで将軍の命令を受けて基家を攻撃していた政長は、逆に幕府から追討される立場へと変わります。

政長とともに河内へ出陣していた武士たちの間にも動揺が広がり、将軍直属の奉公衆などが軍勢から離れていきました。政長は義材のもとで河内を取り戻そうとしていましたが、その義材自身が将軍の地位を失い、頼りとしていた幕府の軍事力も崩れてしまったのです。

正覚寺で攻撃を受け、自害する

政変によって軍勢の支えを失った政長は、将軍・義材とともに河内の正覚寺を拠点としていました。正覚寺は現在の大阪市平野区にあった寺院で、政長はここに陣を構え、なお抵抗を続けようとします。

しかし、基家を支持する軍勢や政元方の攻撃が迫るなか、政長は十分な兵力を集めることができませんでした。かつて義就を攻めるために幕府の軍勢を率いた政長でしたが、今度は幕府の支持を失い、自らが包囲される立場になっていました。

明応2年(1493年)閏4月25日、政長は正覚寺で自害し、52歳で生涯を終えました。義材も政元方に捕らえられ、政長の子である尚順は紀伊へ逃れます。政長が最後の拠点とした正覚寺も、戦いによって焼失しました。

政長は1460年に畠山家の家督を継いで以来、30年以上にわたって義就やその子の基家と争い続けました。将軍から家督を認められ、管領にも就任しましたが、河内の支配を安定させることはできず、最後は将軍の交代を伴う政変によって命を落とすことになったのです。

畠山政長の死後も続いた家督争い

息子・尚順が紀伊で再起を目指す

政長が正覚寺で自害した後も、畠山家の家督争いが終わったわけではありませんでした。政長の子・尚順は紀伊へ逃れ、父に従っていた家臣や地域の武士たちの支援を受けながら、再び勢力を伸ばす機会をうかがいます。

一方、政長の死によって河内での立場を強めた基家も、引き続き同国の支配を進めました。畠山家は政長の死後も二つの系統に分かれ、河内や紀伊をめぐって争いを続けることになります。

また、政長とともに河内へ出陣していた足利義材も、後に京都を脱出して越中へ移り、再起を目指しました。越中には政長を支持してきた神保氏などの武士たちがおり、政長の死後も、その政治的なつながりは残っていたのです。

畠山政長は伯父・持国の後継者争いに巻き込まれて家督を継ぎ、義就との戦いを続けながら室町幕府の管領にまで上り詰めました。しかし、応仁の乱の後には河内を失い、山城国一揆によって軍勢の撤退を求められ、最後は明応の政変で将軍とともに追い詰められました。

政長は将軍の支持を受けて畠山家の家督を守ろうとしたものの、義就との長い抗争を終わらせることができず、明応の政変によって命を落とした武将でした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました