【日本史】山名時義とは?但馬・備後を治めた山名惣領の活動と最期

山名時義、室町の邸に立つ 南北朝時代

山名時義(やまなときよし)は、南北朝時代の山名一族を率い、但馬・備後などの守護を務めた武将です。父・時氏と兄・師義の死後に一族内で力を持ち、足利義満に仕えながら、畿内への出陣と領国の支配に携わりました。

時義の活動は、後に起きる明徳の乱の前史だけではありません。兄弟とともに南朝方の城を攻め、備後では寺院の権利を認める文書を出し、晩年には義満を尾道へ招いています。但馬の竹野谷に建立した円通寺には、時義と子・時熙の結びつきも残されています。

ひと目でわかる山名時義

山名時義は、山名時氏の子で、山名師義・山名氏清の弟にあたります。兄・師義の子らも守護職を継ぐなかで一族の中心となり、京都での奉公と但馬・備後の支配を進めました。1389年に亡くなった後、子の時熙らと一族の他の系統との対立が表面化します。

  • 山名時氏の子として生まれ、兄たちとともに幕府に仕える
  • 1370年代、将軍の社参や儀礼に参加する
  • 師義の死後、子らの系統と並び一族内で主導権を握る
  • 1376年、家臣の死への報復出兵を義満に止められる
  • 1379年、義理・氏清とともに和泉・紀伊へ出陣する
  • 同年、備後守護として浄土寺の権利を認める
  • 但馬の竹野谷を拠点とし、円通寺を建立する
  • 1389年、尾道に義満を招き、同年に死去する

兄・師義の死と一族内での台頭

但馬守護と一族の惣領

山名時義の父・山名時氏は、南北朝の戦争を通じて山陰へ勢力を広げた武将でした。当時は京都の北朝と吉野を中心とする南朝が争い、北朝を支える室町幕府の内部でも対立が起きていました。時氏は一時、幕府に敵対しましたが、1360年代に帰順しています。幕府への帰順後は、時氏だけでなく、その子らも各地の守護に任じられます。守護とは一国の軍事・警察などを担う幕府の役職で、山名氏の場合は兄弟が複数の国を分担していました。

1371年に時氏が、1376年には長男の師義が亡くなります。時義はこの時期に、現在の兵庫県北部にあたる但馬の守護として活動し、やがて一族を率いる惣領の立場となりました。惣領とは一族の中心となる家の当主を指し、一国を任される守護とは異なる立場です。ただし、師義の子の義幸や満幸も守護職を受け継いでいます。時義の台頭は、それぞれの支配を保った一族のなかで主導権を握るものでした。

山名氏が「六分一衆」と呼ばれるほど多くの守護職を持つようになっても、そのすべてが時義一人の領国だったわけではありません。このように、時義は自分の領国を治める一方で、同じく守護を務める兄弟や甥たちと並び立つ立場でもありました。

足利義満の近くで幕府の仕事を担う

山名時義は但馬などの領国を治める一方、京都では将軍・足利義満の近くに仕え、幕府の行事にも参加していました。応安7年(1374年)4月、義満が佐女牛八幡宮を参拝した際には、小侍所の一員として供を務めています。小侍所は将軍の身辺警護などに関わる組織で、時義も将軍の外出に付き従う役目を担っていました。

また、永和2年(1376年)12月には、幕府の行事に際して馬を献上した記録も残っています。当時の武士にとって、将軍への奉公は合戦に参加することだけではありませんでした。時義も京都での儀礼や警護に携わりながら、義満との関係を保っていたのです。

1376年、家臣の仇討ちを足利義満に止められる

永和2年(1376年)7月19日、京都の芋洗橋付近で、時義の家臣たちと地下人との間に争いが起こりました。地下人とは、その土地に暮らす庶民などを指す言葉です。この争いでは山名方の6人が殺害され、時義は家臣を失うことになりました。

事件を知った時義は、翌20日に軍勢を動かして報復しようとします。しかし、これを知った将軍・義満が制止したため、時義は軍勢を出すことができませんでした。この出来事は、公家の三条公忠が記した『後愚昧記』に伝えられています。

時義にとって、家臣が殺害されたことは見過ごせない問題でしたが、京都で勝手に軍勢を動かせば、さらに大きな争いへ発展するおそれがありました。義満は時義による報復を認めず、武力衝突が広がることを防ごうとしたと考えられます。

畿内への出陣と備後守護の獲得

1379年、兄たちとともに和泉・紀伊の南朝勢力を攻める

康暦元年(1379年)、山名時義は兄の山名義理・山名氏清とともに、和泉・紀伊に残る南朝勢力の討伐に参加しました。当時の室町幕府は京都を中心とする北朝を支えていましたが、紀伊や和泉には南朝方の武士が拠点を構え、幕府への抵抗を続けていました。

時義らが最初に攻撃したのは、和泉国の土丸城(現在の大阪府泉佐野市付近)でした。同年1月22日、山名軍は城の麓に設けられた三か所の防御拠点を攻め、南朝方の兵を敗走させるとともに、20人余りを捕らえました。翌23日には土丸城も陥落し、山名軍は和泉における南朝方の拠点を奪うことに成功します。

土丸城を攻略した山名軍は、そのまま紀伊へ進軍しました。2月9日には有田郡の藤並方面へ攻め込み、南朝方が守る湯浅城を攻略しています。さらに11日には石垣城も落とし、紀伊に残る南朝勢力への攻撃を続けました。

こうした戦いで時義は兄たちと行動をともにし、和泉から紀伊へと進む幕府軍の一員として各地の城の攻略に参加しました。山名一族は幕府への帰順後、山陰を中心に守護職を得ていましたが、時義も畿内周辺の南朝討伐に加わることで、将軍・足利義満の軍事活動を支えていたのです。

康暦の政変を経て備後守護となる

時義が紀伊・和泉で戦った同じ年、京都では幕府の政治を揺るがす事件が起こりました。康暦元年(1379年)閏4月、管領の細川頼之が失脚する「康暦の政変」です。

頼之は若い将軍・足利義満を補佐して幕府の政治を主導していましたが、その政治運営に対して、斯波義将や土岐頼康ら有力守護の不満が高まっていました。紀伊・和泉での南朝討伐が思うように進まなかったことも頼之への批判につながり、山名義理や氏清らも頼之に反対する側に立っていました。

閏4月、頼之の罷免を求める守護大名たちの圧力を受けた義満は、頼之を管領から退け、新たに斯波義将を任命しました。これによって幕府の政治を担う顔ぶれが変わり、頼之に反発していた山名一族にとっても、幕府との関係を築き直す機会となりました。

同年8月、時義は新たに備後守護に任じられたとされています。備後は現在の広島県東部にあたり、山陰と瀬戸内海沿岸を結ぶ位置にある国です。時義はすでに但馬守護を務めていましたが、備後守護となったことで山陽地方にも支配を広げることになりました。

尾道の浄土寺を保護し、寺領の権利を認める

康暦元年(1379年)、備後守護となった山名時義は、尾道の浄土寺に対して寺領の保護を命じました。浄土寺は備後の港町・尾道にある寺院で、室町幕府からも保護を受けていました。時義は同年8月29日、浄土寺の境内や寺領で殺生を行うことを禁じ、違反した者には厳しい処罰を加えると定めています。

当時、寺院の周辺では武士や住民が狩猟や漁労を行うことがあり、浄土寺では以前からこうした行為が問題となっていました。時義が出した禁制も、それまで幕府が寺院に認めていた保護を踏まえ、守護として改めて禁止を命じたものでした。

さらに同年9月30日、時義は浄土寺が持っていた得良郷の地頭職を安堵しました。得良郷は備後国世羅郡にあった地域で、地頭職は土地の管理や年貢の徴収などに関わる権利です。時義は従来の寄進状に基づいて浄土寺の権利を認め、寺院が引き続き得良郷を管理できることを保証しました。

こうした命令によって、時義は備後の寺社との関係を築きながら、守護としての支配を進めていきました。浄土寺に対しては境内の秩序を守るよう命じる一方、土地の権利も確認しており、軍事活動だけでなく寺社領の管理にも関わっていたことが分かります。

1388年、大田荘の管理をめぐる争いに介入する

時義は備後の有力寺院を保護する一方、荘園の管理をめぐる争いにも対応していました。その一例が、現在の広島県世羅町周辺に広がっていた大田荘です。

大田荘は高野山金剛峯寺の領地でしたが、現地では荘園の管理を担う役職をめぐって、地域の武士たちが権利を求めることがありました。高野山が遠く離れた紀伊にあるため、実際の土地の管理や年貢の徴収には現地の担当者が必要だったのです。

嘉慶2年(1388年)7月17日、時義は大田荘の新たな預所となった慈光院仙算に、土地を引き渡すよう命じました。預所とは荘園領主に代わって現地の管理を担当する役職で、仙算は高野山側から大田荘の管理を任された人物でした。

しかし、大田荘では国人と呼ばれる地域の武士たちも、荘園の管理権を得ようとしていました。時義はこうした国人たちが管理職を競って求めることを禁じ、仙算が職務を行えるようにしました。

時義が命じたのは、大田荘を山名家の領地にすることではありません。高野山が任命した管理者へ土地を引き渡させ、現地の武士が勝手にその権利を奪わないようにすることでした。備後守護となった時義は、こうした争いに介入しながら、寺社や地域の武士に対して命令を出していたのです。

円通寺の建立と1389年の最期

1389年、但馬に円通寺を建立する

備後で守護として活動していた時義は、本拠地である但馬でも寺院の建立に力を注ぎました。時義が深く帰依していたのが、臨済宗の僧・月庵宗光です。月庵は但馬で大明寺などを開いた高僧で、山名氏からも厚い保護を受けていました。

康応元年(1389年)、時義は息子の山名時熙とともに、但馬国竹野郷の須谷(現在の兵庫県豊岡市竹野町)に円通寺を建立し、月庵宗光を開山として迎えました。円通寺は山名氏の菩提寺となり、時義自身もこの寺に葬られたと伝えられています。

時義は円通寺を建立したものの、同年5月には亡くなり、寺院の整備は息子の時熙に引き継がれました。時熙は父の遺志に従って寺領を寄進し、仏殿などの整備を進めています。

応永9年(1402年)には、時熙が因幡国の津井郷を円通寺に寄進した記録も残っています。その寄進状には、亡父・時義の意向に従ったことが記されており、時義が建立した寺院を息子が引き続き保護していたことが分かります。

現在も円通寺には時義・時熙父子の木像や墓所と伝わる場所が残されており、山名氏とゆかりの深い寺院として知られています。

病のため将軍・足利義満の厳島参詣に同行できず

康応元年(1389年)3月、将軍の足利義満は安芸国の厳島神社を参詣するため、京都を出発しました。この旅では瀬戸内海沿岸の有力大名たちも義満を迎えており、備後守護の時義にとっても、将軍との関係を保つ重要な機会でした。

しかし、この頃の時義は病を患っており、自ら義満のもとへ参上することができませんでした。そこで息子の時熙を代理として派遣し、義満への応対を任せます。

さらに時義は、厳島参詣から戻る義満を尾道の天寧寺へ招きました。3月21日、義満は尾道に到着して天寧寺に入り、時熙らによるもてなしを受けています。この出来事は、今川貞世が記した『鹿苑院殿厳島詣記』にも伝えられています。

1389年、山名時義が亡くなる

康応元年(1389年)5月4日、山名時義は亡くなりました。円通寺を建立し、義満の厳島参詣に際して息子を代理として派遣してから、間もない時期のことでした。

時義は兄の山名師義が亡くなった後、山名一族の惣領となり、但馬や備後の守護として活動してきました。京都では足利義満の近くに仕え、南朝方との戦いにも参加する一方、領国では寺社の保護や荘園の管理をめぐる問題にも対応しています。

時義の死後、家督を継いだのは息子の山名時熙でした。しかし、一族の山名氏清や満幸らは時熙の継承に反発し、翌明徳元年(1390年)には幕府の命令を受けて時熙を攻撃します。時熙は但馬を追われ、山名一族は家督をめぐって対立することになりました。

この争いは、明徳2年(1391年)の明徳の乱へと発展して行くこととなります。

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