玉造稲荷神社(大阪)〜豊臣秀頼が再建した大坂城ゆかりの古社!御朱印の情報やご利益、歴史をご紹介します!〜

大阪府
玉造稲荷神社ってどんなところ?ご利益は?御朱印の料金、いただける場所、時間など、本記事では実際に玉造稲荷神社に参拝していただいた御朱印、神社の特徴について解説いたします!
 

玉造稲荷神社とは?

玉造稲荷神社は、大阪府大阪市中央区に鎮座する、大坂城と深いゆかりを持つ古社です。垂仁天皇の時代に創建されたと伝えられ、聖徳太子が物部氏との戦いで勝利を祈願したという伝承も残されています。豊臣秀吉による大坂城築城後は城の鎮守として崇敬され、豊臣秀頼によって社殿が再建されました。古くから「玉造」の地名とともに歩み、大阪の歴史を今に伝える神社です。

基本情報
玉造稲荷神社(つるがおかはちまんぐう)
所在地:大阪市中央区玉造2-3-8
TEL:06-6941-3821
参拝時間:24時間

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御利益と御祭神

玉造稲荷神社がお祀りしているのは宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)、下照姫命(したてるひめのみこと)、稚日女命(わかひるめのみこと)、月読命(つきよみのみこと)、軻遇突智命(かぐつちのみこと)です。

御利益・御祭神
◆御祭神
・宇迦之御魂大神、下照姫命、稚日女命、月読命、軻遇突智命
◆御利益
・商売繁盛、五穀豊穣、縁結び、恋愛成就、子授けなど

歴史

玉造稲荷神社

 玉造稲荷神社は、大阪府大阪市中央区玉造に鎮座する神社で、古くから大坂城の鎮守として信仰されてきた古社です。
 社伝によると、その創建は垂仁天皇18年(紀元前12年)にさかのぼり、当初は「比売社」と呼ばれていたと伝えられています。神社が鎮座する一帯には、古代に勾玉などを作る「玉作部」と呼ばれる人々が暮らしていたとされ、これが「玉造」という地名の由来になったと考えられています。
 飛鳥時代の用明天皇2年(587年)、仏教の受容をめぐって蘇我氏と物部氏が対立した際には、聖徳太子がこの地に陣を構え、戦勝を祈願したという伝承が残されています。太子は栗の白木の箸を地面に立て、勝利を得られるなら枝葉を生じさせるよう願ったところ、箸から芽が出たといわれています。戦いに勝利した後、太子は十一面観音像などを作り、当地に観音堂を建立したと伝えられています。
 戦国時代の天正4年(1576年)には兵乱によって社殿や古い記録が焼失しました。その後、豊臣秀吉が大坂城を築くと、神社の周辺は城の三の丸や城下町として整備され、玉造稲荷神社も大坂城を守る神社として重要な役割を担うようになりました。
 慶長8年(1603年)には、豊臣秀頼が社殿や高殿と呼ばれる舞台を再建しました。しかし、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では再び戦火に巻き込まれ、社殿が焼失しています。
 豊臣氏の滅亡後、元和5年(1619年)には徳川幕府の大坂城代・内藤信正や地域の人々の寄進によって再建されました。江戸時代には「豊津稲荷社」とも呼ばれ、豊臣時代に引き続き大坂城の鎮守として崇敬されました。
 また、江戸時代に盛んになった伊勢参りでは、西日本からの旅人が道中の安全を祈願する場所としても親しまれました。寛政元年(1789年)には、周辺の人々が東横堀川の浚渫で出た土砂を運び込み、傾斜のある境内を整備する「砂持」が行われています。
幕末の文久3年(1863年)には大坂大火によって再び被害を受けましたが、明治4年(1871年)に氏子や崇敬者の協力によって再建されました。
 しかし、昭和20年(1945年)6月の大阪大空襲で社殿は焼失し、現在の社殿は昭和29年(1954年)に再建されたものです。その後、昭和61年(1986年)には創祀二千年を記念して、境内に「難波・玉造資料館」が開館しました。

玉造稲荷神社のアクセス

アクセス
◆所在地
大阪市中央区玉造2-3-8
◆交通機関
JR大阪環状線、長堀鶴見緑地線「玉造駅」徒歩約5分、JR大阪環状線・大阪メトロ中央線「森ノ宮駅」徒歩約5分

玉造稲荷神社の御朱印

玉造稲荷神社

玉造稲荷神社では上記のような御朱印をいただくことができます!

御朱印情報
授与時間:9:00~17:00
場所:社務所
御朱印代(初穂料):500円
授受形式:直書き
公式サイト:公式ホームページ

玉造稲荷神社の見どころをご紹介!

玉造稲荷神社

鳥居をくぐって参拝スタート!

玉造稲荷神社

参道を進むと玉作岡(たまつくりのおか)の文字があります。古代に勾玉(まがたま)などの装飾品を製作する工人集団である「玉作部(たまつくりべ)」が多く居住していたことから、「玉作岡」と呼ばれたそうです。

玉造稲荷神社

鳥居をくぐって正面に見えるのが社殿です。

玉造稲荷神社

鳥居をくぐって左手には手水舎があります。こちらで身を清めていきましょう。

玉造稲荷神社

正面に見えるのが社殿です。朱色が特徴的な社殿で1954年に再建されたものが現存します。

玉造稲荷神社

社殿の左手にあるのが「利休井」です。豊臣秀吉の時代、千利休は玉造稲荷神社の南側にあたる禰宜町に屋敷を構えていたと伝えられています。

この一帯は「玉造清水」と呼ばれる良質な水に恵まれ、利休も茶の湯に愛用したとされています。また、神社で生駒山を眺めながら茶会を開いたという伝承も残ります。

玉造稲荷神社

境内の右手には「聖徳太子の偲び石」がありました。用明天皇2年(587年)、聖徳太子は仏教の受容をめぐる物部守屋との戦いで、玉造の地に陣を構え栗の白木を地面に差して戦勝を祈願したと伝えられています。

その後、白木から枝葉が生じ、勝利を収めた太子は、十一面観音像などを作り、長楽寺観音堂を建立したとされています。これはその歴史を伝える考古遺物です。

玉造稲荷神社

境内には豊臣秀頼公像があります。玉造稲荷神社は豊臣秀頼と母・淀殿から篤く信仰され、慶長8年(1603年)には豊臣秀頼公によって社殿が再建されました。この銅像は平成23年(2011年)に建立され、豊臣家との深い関わりを今に伝えています。

玉造稲荷神社

その隣には、慶長8年(1603年)、豊臣秀頼が玉造稲荷神社の社殿を再建した際に奉納した石鳥居が残っています。

玉造稲荷神社

その近くにあるのが「胞衣塚大明神(よなづかだいみょうじん)」です。

胞衣塚大明神には、豊臣秀頼の誕生時に母・淀殿から生まれた胞衣(胎盤や卵膜など)が祀られていると伝えられています。当時、胞衣は母子を結ぶ神聖なものとされ、秀頼の「分身」として大切に扱われていました。

玉造稲荷神社

境内には境内社がいくつかあり、そのうちの一つが厳島神社です。

現在地の池(白龍池)に白龍観音が現れたという伝承から、弁才天を祀ったことが始まりとされています。明治時代の神仏分離によって祭神を市杵嶋姫神に改め、古くから雨乞いの神として信仰されてきました。

玉造稲荷神社

その隣には「万慶稲荷神社」と「新山稲荷神社」があります。

万慶稲荷神社は、江戸時代の享保年間(1716〜1736年)に、大坂城内の各所に祀られていた稲荷社を一つにまとめ、玉造稲荷神社の境内に祀ったものです。宇迦之御魂大神を祭神とし、五穀豊穣や商売繁盛の神として信仰されています。

新山稲荷神社は、寛政11年(1799年)、大坂城代・松平輝和が城代屋敷内に玉造稲荷神社の分霊を祀ったことに始まります。もとは現在の大阪府立清水谷高等学校の敷地内に鎮座していましたが、明治40年(1907年)に玉造稲荷神社の境内へ移されました。同じく宇迦之御魂大神を祭神として祀っています。

玉造稲荷神社

江戸時代、玉造は大坂以西から伊勢神宮へ向かう旅人たちの出発地として賑わいました。町には茶店や菅笠屋など旅支度を整える店が並び、人々は玉造稲荷神社で道中の安全を祈願し、お守りを授かって暗峠を越え、伊勢へと旅立ちました。

玉造稲荷神社

境内には難波玉造資料館があります。玉造稲荷神社が鎮座する上町台地の一帯は、古代に勾玉などを製作する「玉作部(たまつくりべ)」が暮らしていたと伝えられ、「玉造」という地名の由来となりました。

朝鮮半島や中国大陸との交流も盛んだったとされ、周辺には古代の遺跡が残されています。昭和61年(1986年)には、創祀二千年を記念して「難波・玉造資料館」が建設され、古代の玉作りに関する資料が紹介されています。

玉造稲荷神社

その他、各種おみくじや絵馬をいただくことができます。


玉造稲荷神社

絵馬は二匹の夫婦狐が合わさったハート型の絵馬をいただくことができます。恋愛成就や夫婦円満のご利益を願う参拝客が多く絵馬に願いを込めています。

まとめ

読んでいただきありがとうございました。
ぜひ、魅力溢れる玉造稲荷神社にお立ち寄りください!

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