【日本史】三好元長とは?堺公方を支えた戦いと細川晴元との決裂

室町時代

三好元長(みよし もとなが)は、戦国時代に阿波から畿内へ進出し、細川晴元と足利義維を支えた武将です。堺を拠点に軍勢を率い、享禄4年(1531年)の大物崩れで細川高国方を破りました。

しかし、高国の滅亡後は晴元と対立し、翌年、本願寺門徒の一揆に攻められて顕本寺で自害します。後に畿内を治める三好長慶の父に当たります。

ひと目でわかる三好元長

三好元長は1527年に阿波から堺へ渡り、細川晴元と足利義維を支えました。味方との不和で一度帰国した後、再び畿内へ進んで細川高国方を破ります。しかし晴元との対立が深まり、1532年、本願寺門徒の一揆に攻められて顕本寺で自害しました。

  • 阿波の細川氏に仕える三好氏の武将で、三好長慶の父。
  • 1527年、晴元と義維を支え、堺を政治・軍事の拠点とする。
  • 1529年に阿波へ戻るが、高国の反撃を受けて再び畿内へ渡る。
  • 1531年の大物崩れで高国方を破った後、晴元と決裂する。
  • 1532年6月20日、本願寺門徒の一揆に追い詰められ、堺の顕本寺で自害する。

阿波の三好氏と細川家の争い

三好之長・細川澄元の敗北を引き継ぐ

三好元長は文亀元年(1501年)、阿波国、現在の徳島県に生まれました。三好氏は阿波の細川氏に仕えた武士の家です。一族の有力者・三好之長は、細川政元の養子となった細川澄元を支え、京都の政治にも進出しました。

永正4年(1507年)に政元が殺された永正の錯乱の後、細川家では澄元と細川高国が当主の座を争いました。之長と澄元は阿波を足場に再起を図りますが、永正17年(1520年)に之長が高国方に敗れて処刑され、澄元も阿波で病死します。

元長は澄元の子・細川晴元を支え、高国に対抗しました。高国が京都で実権を握る一方、阿波では元長らが晴元のもとに集まり、再び畿内へ進む準備を整えました。

足利義維を擁し、堺に拠点を置く

1527年の進出と「堺公方」

大永7年(1527年)、丹波の波多野氏や柳本賢治らの攻撃を受け、細川高国は将軍足利義晴とともに近江へ退きました。同年3月、三好元長は細川晴元・足利義維とともに阿波から堺へ渡ります。元長の軍勢は、晴元方の主力として畿内で活動しました。

足利義維は将軍の義晴と同じ足利将軍家の出身で、将軍の地位を争う立場にありました。堺に御座所を置いた義維は「堺公方」と呼ばれます。公方は足利氏の貴人への呼び名で、この場合は将軍に相当する人物という意味を持っていました。

義維は正式な将軍には任命されませんでしたが、元長・晴元らは義維を中心に政治と軍事を進めました。この体制は「堺幕府」とも呼ばれます。港町の堺は、阿波から海を渡る軍勢の上陸地であり、畿内で活動を続ける拠点となりました。

軍勢を率い、所領の権利を認める

元長は戦場で軍勢を指揮するほか、所領の権利を認める文書も発給しました。大永8年(1528年)正月16日には、竹内為信に山城の所領を認める安堵状を出しています。安堵状は、土地などの権利を保障する文書です。

この安堵状は、東寺に伝わった古文書群「東寺百合文書」に残されています。元長は、晴元方の軍事力を支えるとともに、支配下の土地の権利を確認する役割も担っていました。

阿波への帰国と大物崩れ

味方との不和から帰国する

細川高国に対抗する細川晴元方には、阿波の三好氏に加え、丹波や摂津で活動する武士たちが集まっていました。ところが、三好元長は柳本賢治と不和になり、享禄2年(1529年)に阿波へ帰国します。

その間に高国は、播磨・備前などに勢力を持つ浦上村宗と結び、翌享禄3年(1530年)に反撃しました。高国方は摂津の富松城を攻め落とすなどして進み、晴元は元長を呼び戻します。

高国・浦上連合軍を破る

享禄4年(1531年)、元長は堺に上陸し、高国・浦上方と戦いました。6月、淀川河口付近から尼崎の大物浦にかけて戦いが展開するなか、高国方の援軍として来た赤松政村が晴元側へ転じます。高国・浦上方は崩れ、浦上村宗は戦死しました。

高国も尼崎方面へ逃れた後に捕らえられ、大物の広徳寺で自害に追い込まれました。これが「大物崩れ」です。元長らの勝利によって、晴元は父の細川澄元以来争ってきた高国を排除しました。

細川晴元との決裂と顕本寺での最期

足利義維を支える三好元長と、足利義晴に近づく晴元

細川高国が滅びると、元長と晴元の対立が強まりました。元長には堺公方の義維や河内の畠山氏、阿波の細川氏が結びつく一方、晴元の側には三好政長、木沢長政、摂津の武士たちが集まりました。三好一族の中でも、元長と三好政長は別の側に立ったのです。

元長が堺公方の義維を支え続けたのに対し、晴元は近江へ退いていた将軍の義晴との和睦を探りました。高国を倒すために協力していた両者は、将軍家の誰を中心に据えるかをめぐっても方針が分かれました。

飯盛城への攻撃と本願寺の参戦

河内では、畠山義堯と、そのもとを離れて晴元に接近した木沢長政が対立していました。元長は畠山側に立ち、享禄4年(1531年)に木沢長政の飯盛城を攻めます。飯盛城は、現在の大阪府大東市と四條畷市にまたがる山城です。

この年は晴元の援軍によって木沢長政が持ちこたえましたが、翌享禄5年(1532年)にも畠山・三好側は攻撃を続けました。晴元は木沢長政を救うため、本願寺の教団指導者である証如に支援を求めます。

証如の呼びかけで、寺院や地域の門徒が結びついた一向一揆が軍事行動に加わりました。一揆勢は畠山側を破り、さらに堺の元長へ攻め寄せます。元長は河内の敵に加え、本願寺の門徒勢力とも戦うことになりました。

1532年6月20日、堺で自害する

元長は堺の顕本寺に立て籠もりましたが、攻撃を支えきれず、享禄5年(1532年)6月20日に自害しました。元長が支えた義維も堺を離れ、阿波へ退きます。

元長の死後、一揆勢は畿内各地で勢力を広げ、晴元とも対立しました。晴元は今度は法華宗の勢力などと結んで対抗し、堺の市街も戦乱によって大きな被害を受けました。

息子・三好長慶の再起と堺に残る供養の場

三好元長の子・千熊丸、後の三好長慶は、天文2年(1533年)に本願寺と細川晴元の和平を仲介しました。その後は晴元の家臣として活動し、天文18年(1549年)には江口の戦いで晴元方を破り、京都周辺の主導権を握ることになります。

元長の墓は堺の顕本寺に伝わっています。また弘治3年(1557年)、長慶は父の菩提を弔うため、大林宗套を迎えて南宗寺を創建しました。元長が最期を迎えた寺と、長慶が父を供養した寺が、堺に残されています。

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