馬場信春は、武田信虎・信玄・勝頼の三代に仕えた武将です。馬場信房の名でも知られ、信玄の信濃攻略では城の攻撃や守備、築城などを任され、武田家の勢力拡大を支えました。
「不死身の鬼美濃」と呼ばれるほどの勇将として知られていますが、その活躍は合戦だけにとどまりません。深志城や牧之島城など、武田氏が獲得した城の守備や整備にも携わり、天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、敗走する勝頼を守るために殿を務め、戦死したと伝えられています。
ひと目でわかる馬場信春
馬場信春は教来石氏から出て馬場の名跡を継ぎ、信玄の信濃進出を城の確保と部隊の指揮で支えました。勝頼にも仕え、1575年の長篠の戦いで退却する味方の後方を守って亡くなりました。
- 教来石景政として武田家に仕え、信虎から信玄へ主君が交代しても奉公を続ける。
- 馬場の名跡を継いで有力家臣となる。
- 信濃の深志城を拠点として支配を支える。
- 1557年、北信濃の葛山城攻めを担う。
- 1562年、牧之島城の整備と守備に関わる。
- 信玄の死後は勝頼に仕える。
- 1575年、長篠で味方の退却を支える。
- 長篠で戦死し、城と軍を支えた重臣として名を残す。
武田信玄に仕え、信濃攻略を支える
教来石景政から馬場信春へと名を改める
馬場信春は、甲斐の武士・教来石氏の出身で、もとは教来石景政と名乗っていました。武田信虎の時代から武田家に仕え、その後は信玄・勝頼の代まで活躍した重臣であり、馬場信房の名でも知られています。
信春が仕えていた武田家では、天文10年(1541年)に信虎が駿河へ追放され、息子の武田信玄が新たな当主となりました。信春も信玄のもとで軍事活動に参加し、武田氏が甲斐から信濃へ勢力を広げるなかで、次第に重用されるようになります。
その後、信春は断絶していた馬場氏の名跡を継ぎ、教来石氏から馬場氏へと名字を改めました。馬場氏は武田家に仕えてきた由緒ある家であり、信春がその名を継いだことは、信玄から有力家臣の一人として認められたことを示しています。
信春は美濃守の名乗りでも知られ、後世には「鬼美濃」と呼ばれる勇将として語られるようになりました。ただし、その名声を支えたのは合戦での武勇だけではありません。信春は信濃での城の守備や攻略を任され、武田氏が獲得した地域を支えるうえでも重要な役割を果たしていました。
1550年、深志城の守備を任される
天文19年(1550年)、武田信玄は信濃の小笠原長時を追い詰め、その本拠の一つだった深志城を手に入れました。深志城は現在の長野県松本市にあり、後の松本城につながる城です。信濃中部の松本平を押さえる重要な拠点で、武田氏がさらに北へ勢力を広げるためにも欠かせない場所でした。
信玄はこの深志城の守備を信春に任せました。武田軍は城を攻め落とすことに成功しましたが、小笠原氏の旧領には以前から小笠原氏に従っていた武士たちもおり、城を手に入れただけで地域全体の支配が安定したわけではありませんでした。
信春は深志城を拠点として松本平の守備を担い、武田軍が北信濃へ進むための足場を支えました。信玄が各地へ軍勢を動かしている間も、獲得した城を維持しておかなければ、敵に奪い返されるおそれがあったためです。
こうして深志城を任された信春は、単に合戦に参加する武将ではなく、武田氏が信濃を治めるための重要な拠点を預かる立場となりました。
1557年、葛山城を攻略して北信濃へ進出する
信玄が信濃への進出を進めると、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)との対立が激しくなりました。北信濃には武田氏と上杉氏の双方に味方する武士が存在し、善光寺平周辺では城の奪い合いが続いていました。
そのなかで上杉方の重要な拠点となっていたのが、現在の長野市にある葛山城です。葛山城は善光寺の北西に位置する山城で、落合氏らが守っていました。武田方の旭山城と対峙する位置にあり、上杉氏が善光寺平へ勢力を及ぼすための拠点にもなっていたのです。
弘治3年(1557年)2月、信春は信玄の命を受け、葛山城への攻撃を開始しました。このとき信春は、雪のため越後から上杉軍が援軍を送りにくい時期を狙って攻め寄せたとされています。
葛山城には落合備中守や小田切駿河守らが立てこもって抵抗しましたが、武田軍は城の水の手を断ち、火を放つなどして攻撃を進めました。城兵たちは最後まで抵抗したものの、葛山城は落城し、落合氏らも討死しました。
この攻略によって、武田氏は善光寺平へ進出するための重要な拠点を奪いました。しかし、上杉氏も北信濃を諦めたわけではなく、同年には再び軍勢を進めて武田氏と対峙します。
信春が攻略した葛山城をめぐる戦いは、武田氏と上杉氏が北信濃の支配を争うなかで起こったものであり、その後も川中島を中心とした両軍の対立は続いていきました。
築城と城の守備で武田領を支える
牧之島城を築き、上杉氏に備える
北信濃で上杉氏との争いが続くなか、信春は牧之島城の守備を任されました。牧之島城は現在の長野県長野市信州新町にあり、犀川が周囲を流れる地形を利用した城です。松本平から善光寺平へつながる地域に位置しており、武田氏にとって兵や物資の移動を支える重要な拠点でした。
永禄9年(1566年)、信玄は信春に命じて牧之島城を築かせました。もともとこの場所には香坂氏の城がありましたが、信春はその一部を利用しながら、新たな防御施設を備えた城へと整備しています。
牧之島城では三方を犀川に囲まれた地形を生かし、敵が進入してくる方向には堀や土塁を設けました。城の入口には丸馬出しと呼ばれる防御施設も築かれ、敵が簡単に城内へ攻め込めない構造になっています。
信春はこの城を拠点として、上杉氏の動きに備えるとともに、周辺地域の守備を担いました。武田軍が北信濃で戦うためには、前線の城だけでなく、そこへ向かう街道や途中の拠点も守らなければなりません。牧之島城はそうした役割を持つ城であり、信春が築城と守備の両方を任されていたことが分かります。
現在の牧之島城跡にも、丸馬出しや三日月堀などの遺構が残されています。信春は築城に優れた武将として知られていますが、牧之島城はその働きを具体的に伝える城の一つです。
古宮城の築城に関わり、三河で徳川氏に備える
信春の築城に関する活動は、信濃だけにとどまりませんでした。武田信玄が三河への進出を進めると、信春は三河の作手に築かれた古宮城の整備にも関わったと伝えられています。
古宮城は現在の愛知県新城市にあり、作手を本拠とする奥平氏の動向を監視するため、元亀3年(1572年)頃に築かれた武田方の城です。作手は三河の山間部に位置し、武田氏と徳川氏の勢力がぶつかる地域でした。
信玄はこの地域に軍事拠点を設けることで、現地の武士たちを武田方に従わせ、徳川氏の動きに備えようとしました。古宮城もその一つで、信春が縄張りに関わったと伝えられています。
城は周囲の湿地や丘陵を利用して築かれており、敵が攻め寄せる方向を限るように堀や土塁が配置されていました。こうした構造は、武田氏が三河で軍事活動を続けるための拠点として重要でした。
ただし、信春が古宮城のすべてを設計したと断定できるわけではありません。築城の名手として知られる信春に関する伝承も含まれていますが、少なくとも信玄の信濃・三河での軍事活動において、城の整備を任される重臣だったことは、その経歴からうかがえます。
武田勝頼を支え、長篠の戦いで最期を迎える
信玄の死後も勝頼に仕える
元亀4年(1573年)、武田信玄は三河への出兵から甲斐へ戻る途中で亡くなりました。武田家の家督は勝頼が継ぎ、信春も引き続き重臣として仕えることになります。
信春は信虎・信玄の時代から長く武田家に仕えており、信濃各地の攻略や城の守備を経験した武将でした。勝頼にとっても、信玄の時代から軍事活動を支えてきた信春は、経験豊富な家臣の一人でした。
しかし、勝頼が家督を継いだ頃には、武田氏を取り巻く情勢が変わり始めていました。信玄の死後、三河の奥平氏は武田方から徳川方へ転じ、武田氏が三河で築いてきた支配は揺らぎます。
勝頼はこうした勢力の離反に対処しながら、徳川家康や織田信長との争いを続けました。信春も勝頼のもとで軍事活動に参加していましたが、天正3年(1575年)、武田家は長篠城をめぐって織田・徳川連合軍と激突することになります。
1575年、長篠城をめぐって織田・徳川軍と対峙する
天正3年(1575年)5月、武田勝頼は三河の長篠城を包囲しました。長篠城は徳川方に転じた奥平貞昌が守っており、勝頼はこの城を攻略することで、三河における武田氏の勢力を回復しようとしていました。
しかし、奥平貞昌は城に籠もって抵抗を続け、徳川家康は織田信長に援軍を求めます。信長と家康は連合軍を編成して長篠へ向かい、設楽原に陣を構えました。
連合軍は設楽原を流れる連吾川の西側に馬防柵を築き、武田軍の攻撃に備えます。信春も勝頼に従って長篠へ出陣していましたが、織田・徳川連合軍は武田軍を上回る兵力を集めており、正面から攻めるには厳しい状況でした。『甲陽軍鑑』などの軍記物では、信春をはじめとする武田家の重臣たちが決戦に慎重だったと伝えられています。
最終的に勝頼は設楽原での決戦を選び、武田軍は織田・徳川連合軍と向かい合うことになりました。
設楽原での敗北と武田軍の退却
天正3年(1575年)5月21日、武田軍と織田・徳川連合軍の戦いが始まりました。
武田軍は連合軍の陣地へ攻撃を仕掛けましたが、連吾川沿いには馬防柵が築かれており、その背後には鉄砲を備えた兵が待ち構えていました。武田軍は柵を突破しようと攻撃を続けたものの、織田・徳川軍の抵抗は激しく、戦いが長引くにつれて損害が増えていきます。
さらに、酒井忠次らが率いる別働隊によって長篠城周辺の武田方の陣地も攻撃され、勝頼の軍勢は苦しい状況に追い込まれました。
設楽原では山県昌景や内藤昌豊、土屋昌次など、武田家の有力な武将たちが次々と討死します。長く信玄の軍事活動を支えてきた重臣たちを失い、武田軍は陣形を維持できなくなっていきました。
勝頼は戦場から退却することを決めますが、織田・徳川軍の追撃を受けるなかで軍勢を引き揚げるのは容易ではありませんでした。そこで味方の退却を支えるため、信春が後方に残ることになります。
殿を務め、勝頼を逃がして戦死する
武田軍が退却を始めると、信春は殿を務め、追撃してくる織田・徳川軍を食い止めようとしました。殿とは、退却する軍勢の最後尾を守り、敵の追撃を防ぐ役割のことです。戦場から逃れる味方を守るためには、敵が迫る場所に残って戦わなければならず、特に危険な役目でした。
信春は追撃してくる連合軍と戦いながら後退し、勝頼が豊川(寒狭川)を渡って逃れるまで敵を食い止めたと伝えられています。新城市の長篠城址史跡保存館でも、信春が勝頼の退却を見届けた後に討ち取られたという最期が紹介されています。
勝頼はわずかな兵とともに戦場を離れることができましたが、信春は退却することなく、現在の愛知県新城市出沢付近で戦死しました。
信春の死によって、武田家は信玄の時代から信濃攻略や城の守備を担ってきた重臣を失いました。長篠の戦いでは山県昌景や内藤昌豊らも討死しており、勝頼は多くの有力家臣を失った状態で領国へ戻ることになります。
信春は教来石景政として武田家に仕え始め、信玄のもとでは深志城や牧之島城の守備、葛山城の攻略などに関わりました。さらに勝頼の代にも重臣として仕え、最後は長篠の戦いで殿を務め、主君の退却を支えながら命を落としています。馬場信春は、信濃攻略や築城によって武田氏の領国拡大を支え、長篠の戦いでは勝頼を守るために最後まで戦った武将でした。


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